不良債権としての「文学」

「不良債権としての『文学』」 (「群像」2002年6月号) 大塚英志

この原稿は形式的には前号に掲載された笙野頼子さんの「ドン・キホーテの侃侃諤諤」への反論として誌面を提供されています。前号の『群像』で笙野さんに批判されたぼくは、彼女がそれに費やした原稿用紙三十何枚か以内の反論の機会を与えられるらしいのです。と言っても事情はもう少し面倒で、笙野さんの原稿が近く『群像』に載ること、そして笙野さんがそれについての反論をぼくに求めている旨の伝言がまずあり、ぼくは、であれば対談して直接話した方が生産的でしょう、と答えました。彼女がこれまでもぼくの文章を批判してきたことは承知していましたが――そして前回の彼女の原稿もそうですが――論議が些末な袋小路の中に入っていってしまっていて、ぼくがそれに個々に反論していっても何か実りのあるものになるとは到底思えなかったからで、ならば対話で彼女の主張を聞きつつ問題を少しは整理できると考えたからです。ところが『群像』五月号がぼくの手許に届く直前、そして電話の主である『群像』編集部の寺西氏が、笙野さんも審査員を勤めておられる群像新人賞の選考会に向かうその何十分か前に、彼女の原稿がぼくを不快にさせていないかという「お詫び」と、対談に関しては彼女がぼくを「認めていない」ので「認めていない人間とは対談できない」という回答がなされました。ぼくは正直言って、この一連の過程がとても不快でした。ぼくは不快なことはとりあえず目の前に不幸にもいる人間に当り散らしてストレスを発散することにしていますから、その結果、寺西氏はきっかり三十分は罵倒されたはずです。しかし言うまでもないことですが、ぼくが怒っているのは寺西氏に対してではありません。寺西氏に彼だって忸怩たる思いであるに違いない根回しをさせている「文学」という制度です。笙野さん、と書かないのは、彼女が一連の文章の中で彼女の自意識が「文学」と一体化している印象からだけではなく、こうやって読者に見えないところでなされる非生産的な根回しがぼくはずっと大嫌いだったからです。何と言うか、プロレスをする気が全くないのに、つまり「ワーク」も「ジョブ」もする気がないのに、ただ「アングル」を作っている、という印象です。いやシュートを装っておいて読者に見えない「アングル」も「ワーク」も「ジョブ」もある、と言った方がいいかもしれません。

一つの選択肢として、そういう馬鹿げた場所からさっさと出ていった方が精神衛生上いいし、一度はそう寺西氏にも伝えました。伝えてすっきりしたところで、ぼくはあっさり豹変し、なるほどこの機会に書くべきことは多少は(というか山程)あるな、と考え直しました。

ところで、これまでぼくが笙野さんに反論を敢えてしてしなかったのは、作家にも批評への反論権はあるだろうということ、文学クレーマーの相手してる暇ねーんだよ、という率直な気分の他に彼女が彼女の一連の文章で「大塚英志」に代表せしめているものがぼくにはただの「仮想敵」のように思えたからです。笙野さんの「論争」はそもそも相手が不在で、そのうちにぼくが「仮想敵」の役割を負わされた印象ですが、しかし彼女が、新聞のコラムや老大家の発言、そしてそもそもぼくのように彼女が「認めていない」人物の発言に過剰に(過剰に、というのは元になった発言に対してなされる笙野さんの反論の量によって測定できます)反応する時、しかし彼女が「文学」を代表して脅え、憤っているのは「仮想敵」としてのぼくとは思えなかったからです。むしろ彼女の言説はぼくを含め「仮想敵」を作り出し罵倒することで――例えばぼくに向かって「ロリ・フェミ」と言われても、ぼくは「おたく」で「美少女フィギュアマニア」で、かつてロリコンまんが誌の編集長だったことは公言しているわけですから今さらそう言われても困るのです――実はその「仮想敵」の向こうにあるものと「文学」が向かい合うことを回避しているように思えます。それは笙野さんだけの問題ではなく、彼女の創り出す「仮想敵」が文芸誌の中で語られ続けることで「文学」はその向こう側にあるものと対峙することを順延し続けることさえ可能になっている印象です。笙野さんが「文学」を、ぼくのような「外敵」から守りたいという感覚はわからなくはありませんが、今「文学を守る」ことは「仮想敵」に向かって呪詛のことばを吐くことではないようにぼくは思います。

なるほど「文学」ではないにしてもプロの物書きである以上、笙野さんの些末な部分を些末に論じ返して、山崎邦正対モリマンの如きショーをお見せするのも選択肢としてはあるでしょう。けれどもぼくはせっかく「仮想敵」として名指しされたわけですから「仮想敵」に仮託されたものが何なのかを「文学」や笙野さんに替わって語ることを試みようと思います。その方がはるかに生産的だからです。

さて、笙野さんの「仮想敵」への主張は文学的素養のないぼくが必死に読みとった結果としては次の二点に集約されます。

(1)素人が文学にあらゆる意味で口を出すな。

(2)文学の基準として「売り上げ」を持ち出すな。

こう要約すると「文学」の中にはうんうんと頷く人もおられるでしょう。なるほど「文学」は選ばれし者たちのみの秘儀であり、それゆえに経済性とは無縁のところで「文学」は保護され、素人である読者及び文学外部の者はそれを当然と思わなくてはならないのかもしれません。まして『少年マガジン』に『群像』は食わせてもらっているなどと口が裂けても言ってはいけないでしょう。しかしそうやって守られているものを別のとてもわかり易いことばで言うと「既得権」ということになります。笙野さんは「文学」の「既得権」を守るのではなく「文学」そのものを守っているのだ、とおっしゃるのかもしれませんが、しかし先の二点に戻ると、やはりそれは不可分です。(1)の素人が口を出すなという以上、では素人と玄人の基準はなんなのでしょう。書物という商品の形式を資本主義下で採用しながら、しかし商品的淘汰によって素人と玄人の不和を、言わば市場経済に委ねることから「文学」は免責されています。その替わりに「賞」や「批評」や編集者や作家のひそひそ話といったものがその基準を作っています。「文壇」というやつです。つまり玄人自身が誰かが玄人であることを決める、という制度で落語とか能とかの昇進制度に近い形で「文学」は運営されています。

しかしそういった「玄人」の運営からなる職能集団は現実には出版社という資本主義下の企業に全面的に依存しています。例えば笙野さん個人の書物が講談社に利益をもたらしその配当としての印税のみを受けとっているにしても彼女が擁護しようとしている「文学」全体が出版社に経済的に庇護され、他部門――別にコミック部門だけではなく、『文學界』なら『ナンバー』あたりの――利益の再分配を受けて存続していることへの反証にはなりません。

誤解のないように言っておけば、ぼくは何も「売り上げ」を「文学」の唯一の基準にしろ、と言っているのではありません。まして表現としての「文学」に死を宣告する立場にもありません。インターネット上では大西巨人氏が、その最新作『深淵』を黙々とHP上に書き紡いでおられるように、いかなる経済下でも政治下でも「文学」は生き延びてしまうものです。仮に笙野さんが「擁護」しているのがそのような意味での「文学」であれば、書いた本人さえ忘れている『東京新聞』のコラムに噛みつく必要も「仮想敵」を作る必要もないはずです。まして、そのような水位に於ける「文学」がたった今、対峙すべきなのは、この国の政治状況がもたらしつつある「表現」への危機にこそあるべきです。現時点で「文学」がそのことを気にしている様子がないのは、いかなる法も弾圧もはね除けて「文学」を存続させ得るという確信があってのものだと信じておきます。

だから、ぼくが問題にするのは「既得権」としての「文学」です。不良債権としての文学とさえ言っていいでしょう。とは言え、ぼくはこの「既得権」の中で良質な(とぼくに思われたくもないでしょうが)作品や、「文学」しか行き場のない者たちを庇護することの是非にまでは今は論議を進めません。ただ、その「既得権」そのものが恐らく現時点で維持存続不可能になっており、その代替の手段を現実的に模索しなければ「文学」に関わる出版物は刊行不可能になる、という事態が現実にあります。

試みに『群像』を例に、この文芸誌がいかに経済的に成り立っていないかを試算してみましょう。ちなみにここで示す数字は「文学」の実情よりはるかに甘く見積もってあります。手許に共産党がどこかから手に入れてくる機密費の出納帳なみの数字がないわけではないのですが、「暴露」がこの文章の目的ではないのでそれは控えます。

さて『群像』の本体価格(つまり消費税という国庫に納めるべきお金を差し引いた額)は通常で八七六円です。書物は定価の六〇~七〇%程度で本の問屋である取次に卸されます。この卸値(これを正味といいます)は講談社のように取次と昔から取り引きがある会社であればある程、とても有利になります。文芸誌の刊行元が大抵歴史のある大手であるのはこの有利さが作用しています(取次の正味の差、また新しい版元への様々な不利な条件は「文学」の新規参入をとても困難にしています)。講談社の取次への正味は七〇%前後でしょう。仮に七〇%とすると八七六円×七〇%で一冊の売り上げにつき六一三円二〇銭、もし『群像』が毎月一万部を売りかつそれが一年続けば七三五八万四〇〇〇円の売り上げになります。

しかし当たり前ですが、売り上げが全て利益になるわけではありません。それでは『群像』を一年作り続けるのに一体、いくらかかるのでしょう?

まず、原稿料。『群像』から広告等を除いた頁を三〇〇頁とすると、四〇〇字詰めの原稿用紙で九七二枚の文章が掲載され、四〇〇字一枚当たりの原稿料の平均を五〇〇〇円とすると一号当たり四八六万円、年間で五八三二万円となります。次に印刷代と紙代。これは算出方法によっても異なりますが、仮に一号につき三〇〇万円、年間で三六〇〇万円とします。

しかし一番大きいのは編集者達の人件費で、編集長以下四名いる『群像』編集部員の税込み年収は四人分合計で五〇〇〇万円前後と思われます。一人一人の年収は個人情報に属するので書けませんが、文芸誌を出している大手の出版社や新聞社に限って言えば、給与はサラリーマン一般を大きく上回ります。

以上までで収支を試算すると、一年間で『群像』は七〇七四万余円程の赤字です。しかし少しでも「会社」というものに関わったことのある人ならば赤字はそれに留まらないことはわかるはずです。出版社には営業や人事や経理や校閲や様々な編集者以外の人々が働いています。本なり雑誌という商品はそれらの人の給与も稼ぎ出さねばなりません。本当ならそれも一つ一つの商品のコストに反映させます。また、社会保険料もサラリーマン本人の負担と同額を企業は負担します。これも一つ一つの商品に撥ね返るコストです。あるいは笙野さんが前号の原稿を書く直接のきっかけとなったぼくたちの対談は、ホテルの一室でフルコースの食事付きで行われ、そうでなくても作家と編集者が飲み屋で打ち合わせに要するコスト(寺西氏に関して言えば、ぼくの仕事場近くの喫茶店でコーヒー一杯という慎ましやかなものだとしても)それなりにかかります。バイク便やコピーやFAXや、そういった類を含めて「経費」は一切算入していないし、それこそ群像新人賞を運営するコスト――選考委員一人一人の謝礼は受賞者の賞金とさして変わらないはずです――まで、本当は一冊六一三円二〇銭の雑誌を売ることで捻出していかなくてはならないはずです。

とてつもなく甘く見積もって年間、七〇〇〇万円の赤字。それでも連載作品がベストセラーになれば収支は合いますが、どうした理由からか「文学」では例外的に多くの読者を持つ大江健三郎氏や村上春樹氏は『群像』には殆ど登場しません。

それでもこれまではこの赤字をそれこそ『少年マガジン』なり、各社の売り上げの立つ場所が支えてきました。しかし問題なのはこれからも出版社はこの「赤字」を支えきれるのか、ということです。かつて文芸誌『海』を発行していた中央公論社は経営が悪化するにつれて文芸誌を休刊する一方でコミックに手を出し(文芸誌の版元がまんがに手を出す時は大抵、何かあります)結局、読売新聞社の支援で新会社に移行しました。しかしまんがが出版社の売り上げの多くを占めているという事態は変わらないにしても、まんが全体の市場はここ数年、縮小方向にあります。『コミックバンチ』の売れ行きが好調といっても、『新潮』の赤字までは支えきれるとは思えません。もはやまんがはまんが単独の利益を確保していくのが精一杯です。まんがに替わる高収益商品を各社は血眼になって探していますが、例えばそれこそ夏目漱石を始めとする「文学」が数多く収録されている老舗の某文庫の年間売り上げが数年前の半分に落ちているように、「文庫」という「文芸出版」を支えてきた商品もとうに行き詰まっています。

ところで「文学」が昔から売れなかったわけではありません。戦前から戦後のある時期まで文学全集が馬鹿みたいに売れた時代がありました。その時の高収益体質は、細かく検証しませんが「文学」の既得権を形成した現在の高コスト体質に繋がっています。八〇年代の終わり頃には「メセナ」と称し、企業の文化支援が検討されましたが、バブル崩壊でそれも泡と消え、国家から「文化」に向けられていたささやかな支援が「構造改革」流行りの今、今後も続くとは思えません。例えば石原都政下では東京都は都立図書館で一種類の本を一冊しか買ってはいけないというルールができました。図書館というレベルでも緊縮財政です。一方では都が東京ビックサイトでアニメの見本市なるものを開いたり、国もメディア芸術祭なるものを始めて、ぼくのところにも賞にノミネートしていい? という通知が来ますが、税金をそんなふうに使いたくないのでお断りしています。けれども国からの経済的支援で商業アニメを作れるようになった受賞者はいます。「文学」を含め旧来「芸術」に投下されていた税金はアニメやコミックといった経済性の強いものにシフトしつつある印象です。それがぼくたちのジャンル――無論、アニメやまんがのことです――について幸福であるとは思えず、それはまた別の問題として今のぼくにはあります。

それはともかく、文学全集にかつて支えられた『海』や『文芸展望』が休刊し、『海燕』がスポンサーだった受験産業の撤退で休刊し、あるいは文芸書以外の商品をそう多く版元が持たない『文藝』が季刊になるという事態が、『群像』や『新潮』や『文學界』や『すばる』や『小説トリッパー』(どこまでを「文学」が文芸誌として認めるかは別として)に突然、しかも揃って起きないとは限りません。文芸誌がいつまでも「聖域」であり続けることは今の出版界の置かれている状況を考えると到底、不可能なのです。

言うまでもないことですが、出版界そのものが今、大きな過渡期にあります。それこそ「IT革命」なるものが出版のあらゆる過程に及びつつあります。デジタル化による編集プロセスの根本的な作り直し(例えばパソコンで書かれた原稿がメールで送られ、しかしゲラは紙の上、校閲の人たちに鉛筆でなされています。ぼくは校閲が不要だと言っているのではなく、ただこういったデジタルとアナログの齟齬が出版の各所で生まれ、それは企業コストの問題から先送りはもうできないはずです)から、流通の形態そのもの、そして「本」という商品の形式そのものの問い直しを含めて、企業の形態を変化させなくてはならない局面にあります。ぼくは出版を全てデジタル化してしまうのが正しいとは言っていません。例えばパソコンを使う気が全くないぼくの原稿はコクヨの原稿用紙にサインペンで書かれ、しかしテキストデータで原稿を受けることを多くの編集者が当たり前のように思い始めているため、ぼくの事務所にはぼくの手書き原稿をパソコンに入力するスタッフがいます。ぼくが江藤淳氏や大江健三郎氏でしたら「手書き」の「玉稿」を版元は押し頂いてくれるでしょうが、そうもいきません。もっとも作家がパソコンで書くということが実はほんの少しだけ(つまり組み版を作るという作業を作家が行うことで)「文学」のコストダウンに貢献しているのは皮肉なことです。焼け石に水ですが。

その詳細にこれ以上ここで立ち入ることは三〇余枚というぼくに許された「既得権」の中では不可能ですが、ここに記したことは文芸誌のコストを含め出版に少しでも関わる人々なら誰でも知り、あるいは気づいていることです。笙野さんが作り上げてきた「仮想敵」の向こうにあるのは「文学」に関わるものが薄々気づき、しかし、先送りにしき文学出版がとうに立ち行かなくなっている、という「現実」ではないのでしょうか。

さて、問題はならばどうするか、という次の局面です。この文脈で引き合いに出されることが彼らの本望ではないでしょうが、例えば『重力』という「文芸誌」が手許にあります。書き手自らが一人十万円を出資し、DTP(というデジタル化された編集技術)を駆使してこれも自ら編集し、その制作コストを徹底して抑えています。先の『群像』の試算に戻ると、実は文芸誌のコストの大半が編集部の給与と原稿料及び講談社という大企業だから要するコストで、印刷費や紙代のみを基準にすると「文芸誌」は実は案外と採算がとれてしまうことに気づくはずです。案外と、などと記すと『重力』の連中はそんな簡単なものじゃない、と言うかもしれませんが、本来、少人数でやる限り出版は至ってローリスクなビジネスなのです。『重力』の人々の動機がどこにあるのかは彼らの雑誌を読めばいいので言及しません。しかし彼らは少なくとも「文学」(その定義さえ、例えば『重力』のメンバーの一人、鎌田哲哉氏とぼくでは全く接点さえないでしょうが)の「経済的自立」の手段を模索しているという点で、既存の「文学」が回避し先送りにしている「危機」に対処し得る(あるいは「対処」としても流用できる)具体的な試みと提案をしている点で無視すべきではありません。彼らには余計なお節介でしょうが、彼らの試みをぼくの文脈で語ることがこのエッセイの一つの動機です。そうでもしなければ笙野さんの「論争」に誰も参加しなかったように彼らの試みも黙殺されるでしょう(彼らにとってはそれで全くOKなのでしょうが)。その試みを「流用」することは「文学」の危機にとっては対症療法でしかなく、ならば柄谷行人とその一行のように「文学」ごと資本主義システムの外に出ることを模索し実践する方が理論的に正しいのかもしれません。ただ、そこまで「原理」主義的にならずとも、譬え対症療法的にでもいくつかの試みを提案することは可能です。もう与えられた枚数も少ないので最後はそれを箇条書きにしておきましょう。

(1)出版社のコストダウン

編集者の給与体系の見直し、DTPのソフトを文芸誌の編集者は取得することを「資格」の一つとするというレベルから、文芸部門の分社化によるコストダウンも考えられてしかるべきです。つまり「文学」出版だけで小さな会社として存続していく途を模索するのです。例えば『群像』が分社化される場に流通部門や管理部門は講談社に依託します。出版(つまり本の形にするまで)のコストを分社化された『群像』編集部は独立採算で行い、流通その他に関する手数料を払います。先ほどは講談社など文芸を手掛けている版元の正味は新規に出版社を起こすより有利だと記しました。一定の手数料を払っても様々な点で新しく版元を起こすよりこの方がメリットがあります。ですから何も『群像』が分社化されなくても、講談社の中にどうしても「文学」をやりたいという人間がいれば独立採算で社内起業をすればいいのです。もはや文芸出版社ではありませんが、角川書店などは角川が流通部門に特化していく方向で、個別の版元は「発行元」として「発売元」である角川の傘下に入るという形になっています。肝心の社員たちは全く気づいていませんが「社内起業」が(文学に限らずとも)最も起こし易いのが角川書店です。文芸誌なり文芸書の売り上げの中で編集者は年収一〇〇〇万円をキープできなくなるかもしれないし、作家の印税も一〇%をキープできなくなるかもしれませんが、「小さな出版社」化することで案外と身軽になれる部分があります。より小部数での刊行も可能になります。

(2)作家の自己責任による出版制度の導入

企業努力によって少部数でも採算がとれているうちはいいですが、それさえも不可能になった時、その作家はもはや現実的に単行本を出せなくなります。それなりに実績があったり政治力があれば現状ならどうにかなりますが、それさえ困難になった場合どうすれば本は出せるのでしょう。現在でもいくつかの版元には自費出版の代行サービス部門が子会社の形であります。既存の(この「既存」の定義もいろいろ可能でしょうが今は先に進みます)作家でもはや「本」としての採算が不可能になった場合、作家は出版のコスト(印刷に至るまでの全費用。当然、編集者の一冊割りのコストも含まれます)を負担し、版元から刊行します。その替わり利益が出れば作家に一定の手数料を引いた後の金額が戻されます。このような機能を分社化した文芸部門か、あるいは新たな分社として文芸誌の版元が設定し、編集者は版元を退職した編集者たちを安い賃金で再雇用します。編集者の中には会社で偉くなる人生より、一生、編集の現場でゲラ読んで死にたいという人(だからぼくもまんが編集の現場を離れられません)がいるはずです。アルバイトで若い編集者も一緒に雇用し、あるいは版元の新人社員も一年か二年研修で受け入れることで(当然、研修費を親会社から受けとります)「編集」にまつわる様々な技術――決してデジタル化されない――を継承していくことも可能でしょう。安い労働コストは作家の負担を最小限に留めると共に最良の「編集」を提供してくれるはずです。作家自身は年金を溜めるとか、割り切ってサラリーマンをやって(吉本隆明氏だってかつて隔日で働きに出ていたはずです)生活を成り立たせ出版費用を捻出します。『重力』で市川真人氏が提案している、読者から「投資」の形で出版費用を捻出し、一種のファンドを組むことで作家が出版費用を調達するという制度もこういう枠の中で活用され得るでしょう。税金を「文学」に使うことが正しいとはぼくには思えませんが、「文学」への補助がこの制度の中で機能すべく政治力のある文学の大家たちが国家に働きかけることまでぼくは反対しません。文芸家協会が会員から資金を集め低利で出版費用を貸し出すことも考えられます。

(3)文芸出版の読者への解放

話は前後しますが『重力』という雑誌は三〇〇〇部刷って印刷製本に至るコストがどうやら一〇〇万円を切っているようです。手許にはあるまんが同人誌専門の印刷会社の価格表がありますが、DTPでのデータ入稿、もしくはパソコンで出力した頁を一枚一枚版下にしていく作業という手間を厭わなければ、まんがであろうと小説であろうとソフトカバーで三〇〇頁ある「本」が一〇〇〇部五〇万円で作れることになっています。五〇万とか一〇〇万円は大金ですけれど、同時に本を出す値段としては意外と安く感じる人もおられると思います。例えば五〇万円で一〇〇〇部、本を作ります。一冊当たり五〇〇円のコストです。それで一五〇〇円ぐらいの定価をつけていいぐらいの本が作れます。ぼくたちの前に現れているデジタル環境は本を作る手間暇を「素人」の人に等しく開き、他方、まんがの周辺には安価で手軽な印刷会社が大量に発生しています。つまり「出版する」という行為は以前にもまして読者に開かれています。

ならばこういう制度が可能です。窓口には文芸家協会のような作家の団体が当たることが望ましいですが、その窓口に申請し、その窓口を介して作家の許可がおりれば既存の作家の単行本未収録作品、絶版作品に限り誰にでも(つまりアマチュアにも対しても)出版可能にします。あるいは取次に口座を持たない法人、個人に対象を限定する形もあり得るでしょう。これまで古書店あたりが知己の作家の豆本や豪華本を出すケースがありましたが、それをオープン化するわけです。無論、許可するしないは作家の自由。「版元」となる申請者は五~十%程度の印税を窓口を介して払います。窓口はそのうち何割かをこの制度の運営コストに当てるために受けとります。一五〇〇円の本が一〇〇〇部で印税が十%だとすると十五万円。印刷費とプラスしても六十五万円が「個人版元」の負担です。

ネット上に著作権の切れた小説をデジタル化しているサイトがありますが、これは「文学」の「本」としての存続を読者に委ねるわけです。渡部直己氏らとの座談会では、講談社の文芸文庫の『戦後短編小説再発見』シリーズに言及していますが、興味深いのは同シリーズがささやかだけれどちゃんと売れたこと。収録された作品の大半が現行する単行本に未収録の短編だということです。当然、「文学」にはもはや文庫でさえ絶版・品切れになった作品は山程あります。そうやって忘れ去られていくことも「文学」の運命なのかもしれませんが「素人」に「個人販売」制度を設けることで生き延びる作品があってもいいはずです。「素人」に著作権を開くという考え方はおたく業界でワンダーフェスティバルというガレージキットのイベントが考案した「一日版権」という制度で既に長い間、運用されています。ワンフェスの一日に限ってまんが家やその著作権の代行者としての版元は一定の手続きの元「素人」に自らの著作権に基づく商品(この場合は「キャラクター商品」です)を作ることを許可します。そこには様々な問題も発生していますが、それは運営されていく中でこそ議論すべきです。例えば読者であるあなたに一〇〇万円の定期預金があってそれを用いればあなたが発行元となってあなたの愛する作家の作品を「本」として存続させられるのだとしたら、案外、やってみたいという人はいるような気がします。

問題は流通で、現状の出版制度内では二つ考えられます。一つは流通を代行してくれる既存の版元(がいくつかあります)に依託する形。もう一つは、文芸家協会や既存の大手版元(じゃなくても有志でもいいんだけれど)がこのシステム専用に取次に口座を開設し発売元を引き受ける形。「本」をどうデザインするかはお金を出す「素人」の自由ですが(あくまでも自己負担ですから)、一方で一定のフォーマット(つまり「文庫」や「業書」といった版型や装本を統一したもの)に従って当事者たちがその形で構わないと思えばその一冊でリリースできる形を用意しておくことも可能です。その方が様々なコストダウンがより可能です。つまり講談社文芸文庫の一点一点に「素人」の発行元がいるという形です。

もちろん、こうこつと自ら書店に直接持ち込んでおいてもらうことも可能です。

(4)既存の流通システムの外に「文学」の市場を作る

ここまでは何のかんのいって既存の流通システム、つまり版元―取次―書店という枠の中での提案です。けれどもこれらの制度の外側に「市場」は作れないのでしょうか。ネット上での作家自身による直販も考えられますが、例えばぼくが提案したいのは「文学コミケ」です。この話は以前、市川真人氏と立ち話をしたことがあります。コミケ、というのはまんが同人誌の即売会でコミケットと呼ばれるイベントがその元祖で、東京ビッグサイトに何十万人もの入場者を集めることで知られていますが、これは「素人」が勝手に運営している点が特徴です。今は運営団体は法人化されていますが、どこかの企業がビジネスとして始めたのではなくて、何人かのおたくが自分で作った同人誌を小さな市民ホールを借りて今でいうフリーマーケット的なイベントを始めてから二十何年かでこうなってしまったのです。コミケット以外にもまんがの周辺には先のワンダーフェスティバルなども含めて無数の「素人の創作物」を売るイベントが存在しています。

何故「文学」でこれができないのでしょう。『文學界』の巻末には松本徹氏の「同人誌時評」が載っています。月におよそ百冊程の同人誌が寄せられている印象です。一方『群像』を含め殆ど全ての文芸誌には「あなたの原稿、本にします」式の自費出版の会社の広告が載っています。この種の自費出版サービスは全国紙に大きな広告を出しているぐらいですからかなりの需要があるのでしょう。これらの同人誌や自費出版の多くは身内の中でささやかに読まれ消えていくのでしょうが、やはり本当は「本」という形をとる以上、不特定多数の読者をあなたたちも求めているのではありませんか。

現状の「文学」の力でビッグサイトを満員にすることは不可能です。けれど東京都下の市民ホール当たりで同じものを開催することは至って簡単です。スチールの机を五〇か一〇〇程並べ、机一つに五〇〇〇円かせいぜい一万円を会場費や机その他のリース代の「割り勘」として負担し、その机の上で自分が「文学」と信じる書物(別にフロッピーだっていいけど)を売るという催しです。こういう催しがあれば、(3)の「個人版元」も自らの発行物を持ち参加できます。

コミケ的なイベントに「文学」学ぶことがあるとすれば、それが既存の版元以外の場所から新人が世に出ることを可能にしたという点、是非はともかく「同人誌で食っていける」という状況を生んだ点です。それまでコミケ以前にはまんが家を志すものは一ツ橋、音羽と呼ばれていた小学館系、講談社系の版元とせいぜいあと二つ三つの版元からしかデビューできませんでした。市場をこれらの版元が寡占していたからです。けれど同人誌即売会が拡大していく中で「コミケ」の中で読者に認知され、まんが家として既存の版元に進出するものが多数現れ、同時に彼らを回収することで新規にまんがに参入する版元が増えました。更にまんがでは、この「コミケ」に「玄人」であるまんが家たちが参入しています。というよりも「素人」と「玄人」の境界はその場に於いては消滅してしまいます。コミケの時期になるとまんが家やアシスタントがコミケ用の同人誌づくりに忙しく「コミケ進行」などという洒落にもなっていない事態まで生まれていますが、プロになった者たちがコミケに戻っていくという現象もこのイベントの集客能力を支えています。それは例えば松本徹氏の時評で扱われる無数の同人誌に混じって柄谷行人氏が「トランスクリティーク」を手売りし、その隣で吉本隆明氏が「試行」バックナンバーを叩き売りし、あるいは高橋源一郎氏が「官能小説家無修版」(なんてあるのかどうかも知りませんが)をこそこそ売っているような「場」です。そのような「場」を「文学」が用意できず「まんが」が用意できたのは、はたして「まんが」の市場が巨大だったからだけなのでしょうか。それはやはりそのジャンルそのものの「生き残る意志」の問題のような気もするのです。

さて、与えられた枚数は尽きつつあります。一つ一つの提案にはいくつもの問題点もあるでしょう。より良いアイデアがきっとあるはずです。必要なのはそういった議論を「仮想敵」を立てることで回避せず、きっちりと行い、実行に移すことで「文学」が自らの生き延びる手段を模索することではありませんか。

繰り返しますが、ぼくは「経済的自立」に「文学」の全ての価値があると言っているのではありません。しかし大西巨人氏のように黙々とHPに「文学」を無償で発信していく覚悟がないなら、現実的に「文学」や「文学者」を存続せしめる具体的な悪あがき一つせずに「文壇」で「文学」を秘儀のまま存続させるのは不可能だと言っているだけです。

最後に書きっぱなしにしないように「玄人」「素人」問わず、個人、グループ問わず、仮に東京近郊で「文学コミケ」が開催されるとしたら机一つにつき五〇〇〇~一万円の参加費を負担し自分の同人誌なり著書を(プロの著者は既存の版元から出ているものの販売もとりあえず可とします)売りたいという人々が五十組以上(これは一万円前後の会場費で何とかなる最低ラインです)、先に話したような「文学コミケ」をぼくは一度だけ開催します。その場合、参加者は負担金だけでなく会場に机を並べるというレベルから始まる様々なボランティア的協力を拒否できません。地方から参加する人は交通費も宿泊費も当然、自己負担です。開催の告知は各文芸誌その他にお願いしたりはしますが、載せてくれるかどうか確約はできません。つまり、最悪、お客さんは一人も来ない可能性があります。それでも尚、自分が「文学」だと思うもの(それが『重力』だろうが、福田和也の弟子の関口隼也の書くギャルゲー同人誌だろうが、ここでは同価だというのがルールです)を携えて、まだ見ぬ読者の前に立ちたいという人が五十人(組)、いわばそれは一つの可能性のように思います。

とりあえず参加してもいい人たちは『群像』編集部気付け大塚英志に往復ハガキで住所氏名を明記して「参加希望」する旨を書いて送って下さい。五十通に達したか否かの結論を返信します。ハガキの締切りは一ヶ月後としましょう。読者は半年以内に各文芸誌に開催の告知が載らなければ五十組の希望者がなかったか、各文芸誌に開催を黙殺されたかのどちらかです。もちろん笙野さんの参加は大歓迎です。ぼくも「石原慎太郎論」でも書き下ろしてコピーしてホチキスで綴じるか何かして机の前に立つことにしましょう。