本ページでは「文学フリマ五周年記念文集」に収録された「文学フリマの軌跡2002-2003」(望月倫彦) を公開します。
文学フリマって何?
文学フリマは評論家・まんが原作者として知られる大塚英志さんが『群像』誌2002年6月号(講談社)掲載のエッセイ「不良債権としての文学」で行った呼びかけを発端として生まれた同人誌即売会です。既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表できる「場」を提供すること、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」をつくることを目的とし、プロ・アマといった垣根も取り払って、すべての人が〈文学〉の担い手となることができるイベントとして構想されました。
文学フリマとは文学のフリーマーケットです。より具体的に言えば、参加者が自らの手による著作を自らの手で販売するフリーマーケットということになります。いわゆるフリマとは異なり古書を出品するわけではありません。自分が〈文学〉と信じるもの——自費出版の本はもちろんのこと、ホッチキスで綴じただけのコピー誌、フロッピーディスクやCD−ROM、果てはTシャツまで——を売るのです。
コミック系同人誌即売会の文脈で表現するならば、「文学オンリー」の同人誌即売会という感じでしょう。付け加えるなら「創作」中心です。参加規定として二次創作を禁止しているわけではありませんが、参加者も客層も基本的には〈文学〉という言葉を念頭に置いているせいか、暗黙の了解として「オリジナル中心、二次創作はNG」ととらえられているようです。
参加者には何十年という歴史を持つような堅い文芸同人誌もあるし、六十台七十台のお年寄りだって珍しくはありません。同人誌即売会としては比較的珍しい、非オタク的な雰囲気を持つイベントなのです。なおここで言うオタク的とは、アニメ・コミック・ゲーム好きのノリという意味であって、ある物事に執着している人という広い意味ではありません。なにしろ七十歳にもなっていまだに小説を書いているなんて、ある意味究極のオタクですから。
文学フリマの始まり
最初に述べたように、文学フリマは大塚英志さんの呼びかけからはじまりました。そのきっかけとなった「不良債権としての『文学』」について紹介しておきましょう。
この文章は本来、笙野頼子さんの「ドン・キホーテの侃侃諤諤」(「群像」2002年5月号)への反論として書かれたという経緯があります。おおまかに流れを説明すると、大塚さんがコラムや座談会などで「純文学は売れないので商品として問題がある」という旨の主張を行っていたことを、笙野さんが前出の文章で「文学の素人が商品価値のみで文学を否定するな」という論旨で痛烈に批判し、その反論として「不良債権としての文学」が書かれたということになります。
大塚さんは笙野さんの批判に対し「何も『売り上げ』を『文学』の唯一の基準にしろ、と言っているのではありません」と述べ、むしろ赤字でも出版社に保護されるという「文学」の「既得権」がもはや維持存続不可能であり、このままでは文学出版そのものが立ちゆかなることに警鐘を鳴らしているのだと続けます。そして、その危機への対処方法としていくつかの具体的なアイデアを提示します。その中のひとつが、「既存の流通システムの外に『文学』の市場を作る」という案、すなわち「文学フリマ」の開催というアイデアだったのです。
少々長くなりますが、文学フリマの呼びかけに該当する部分をここに引用します。
最後に書きっぱなしにしないように「玄人」「素人」問わず、個人、グループ問わず、仮に東京近郊で「文学コミケ」が開催されるとしたら机一つにつき五〇〇〇〜一万円の参加費を負担し自分の同人誌なり著書を(プロの著者は既存の版元から出ているものの販売もとりあえず可とします)売りたいという人々が五十組以上(これは一万円前後の会場費で何とかなる最低ラインです)、先に話したような「文学コミケ」をぼくは一度だけ開催します。その場合、参加者は負担金だけでなく会場に机を並べるというレベルから始まる様々なボランティア的協力を拒否できません。地方から参加する人は交通費も宿泊費も当然、自己負担です。開催の告知は各文芸誌その他にお願いしたりはしますが、載せてくれるかどうか確約はできません。つまり、最悪、お客さんは一人も来ない可能性があります。それでも尚、自分が「文学」だと思うもの(それが『重力』だろうが、福田和也の弟子の関口隼也の書くギャルゲー同人誌だろうが、ここでは同価だというのがルールです)を携えて、まだ見ぬ読者の前に立ちたいという人が五十人(組)、いわばそれは一つの可能性のように思います。
とりあえず参加してもいい人たちは『群像』編集部気付け大塚英志に往復ハガキで住所氏名を明記して「参加希望」する旨を書いて送って下さい。五十通に達したか否かの結論を返信します。ハガキの締切りは一ヶ月後としましょう。読者は半年以内に各文芸誌に開催の告知が載らなければ五十組の希望者がなかったか、各文芸誌に開催を黙殺されたかのどちらかです。もちろん笙野さんの参加は大歓迎です。ぼくも「石原慎太郎論」でも書き下ろしてコピーしてホチキスで綴じるか何かして机の前に立つことにしましょう。
すでにこの段階で、参加者の運営への協力は義務であること、プロでもアマチュアでも参加者は同等であることなど、現在の文学フリマの参加要項と同じ理念が明記されています。また、「ぼくは一度だけ開催します」と述べられている点も、後の展開を考える上で見逃せません。文学フリマを二回目以降も続けていきたいという有志がいなければ、文学フリマは一度きりだという大塚さんの考えは、この時点から頭にあったということでしょう。
この呼びかけからどのように展開していったかは次章で述べるとして、文学フリマというイベントは以上のような経緯で生まれました。「不良債権としての文学」文中で「この話は以前、市川真人氏と立ち話をしたことがあります」と語られているように、大塚さんの中では「文学コミケ」というアイデアはもっと以前からあったようですが、大塚さんと笙野さんの論争の中で文学フリマ開催の呼びかけが行われたというのは客観的な事実です。
この二人の論争自体は一般に「(二〇〇〇年代の)純文学論争」と呼ばれ、ウィキペディアなどにも紹介されています。また論争にまつわる笙野頼子さんの文章は『ドン・キホーテの「論争」』(講談社)、『徹底抗戦!文士の森』(河出書房新社)としてまとめられています。一方で、大塚さんの「不良債権としての文学」には諸般の事情があるようで、二〇〇六年現在、単行本に収録されてはいません。ただ、第一回文学フリマ開催時に立ち上げられたサイトにアップされた全文のテキストが、消されることなく今でも閲覧可能です。「不良債権としての文学」という文章そのものが不良債権化している、というのは笑えない冗談ですが、インターネット上に誰でも読める状態で放置されている姿はこのテキストにふさわしいような気もします。この純文学論争に興味のある方は、笙野さんの著作と、検索エンジンに「不良債権としての文学」と入力して出てくる文章を読んでみてください。(注・現在「不良債権としての『文学』」はこの文学フリマ公式サイト内で読めるようになっています。)
最後に、文学フリマというイベントにとって、この論争がどのような影響を与えているかを少し述べておきます。といっても、文学フリマの側から見れば、論争はあくまでもこのイベントにまつわる歴史的事実というだけなのかもしれません。せいぜい「私は笙野頼子ファンだから文学フリマには参加しない」といった声を聞いたことがある程度です。また、これは私の個人的な印象ですが、大塚英志における「論争としての文学フリマ」、あるいは「実験としての文学フリマ」は第二回が開催された時点で終結したのではないかと思います。つまり、第一回は言い出した者の責任として自らが開催したけれど、「文学フリマというアイデアは本当に必要とされるのか、需要があるのか」、ひいては「自分の主張は正しかったのかどうか」という点は、アマチュア有志による第二回が開催されてこそ証明されることだからです。
よく文学フリマ事務局は「有志の運営と言っても裏で大塚英志が仕切ってるにきまっている」といった邪推をされるのですが、むしろ大塚さんにとっての文学フリマは自分が完全に手を引いても続いているからこそ意味があるのです。そしておそらく大塚さんが文学フリマを始めた当初の目的は、第二回が開催された段階で達成されたと見ます。論争がイベントに見えない影響を与えていたとして、それも第三回以降はほとんどなくなっていたということです。
ただ欲を言うならば、十年、二十年経ってからこの純文学論争が顧みられた時に、「この論争は非生産的なものであったが、文学フリマを生んだという事実において生産的な結果を残した」と評価されるようにしたいというのが私の願いです。
第一回文学フリマ開催までの経緯
さて、「不良債権としての文学」が掲載されてから約二ヶ月後、呼びかけに答えて文学フリマ参加希望のハガキを送った人たちの手元には以下のような文書が送付されました。
前略
この度は『群像』誌上での「文学コミケ」への参加希望のハガキをたまわりありがとうございました。参加希望者は50に達しませんでしたが、現在、参加を表明してくれた個人、サークルは34。アマチュアの同人誌、大学のゼミ、作家、編集者と多様です。
『群像』誌上で条件とした50には達しませんでしたが、期日等を明確にすれば参加したいという声も各方面から寄せられていますので、開催を行うことにしました。後には引けません。
現時点で皆様にお伝えできるのは以下の通りです。
①時期は11月3日(日)、11時〜18時です。
②場所は東京の渋谷にある青山ブックセンター(青山学院大学近く)となります。
③追加で20サークル程度の参加を改めて一部文芸誌その他で公募しますが、今回『群像』当てにハガキを下さった方は改めて応募いただく必要はありません。参加費用等、事務手続きについて記した文書を8月を目処に送付します。その時点で日程その他で御辞退なさる方は申し出て下さい。
④「文学コミケ」という名称は「コミケ」がコミックマーケットの商標登録なので、正式にイベント名は「文学フリーマーケット」等になる予定です。
⑤参加費(販売スペースの使用料)は5000円以内、なるべく安価に使用できる会場と交渉し、負担の軽減を努力しています。この中でチラシの作成等も行います。
⑥共催の準備は市川真人氏(早稲田文学)と大塚英志が行っていますが、『群像』でも述べたようにボランティアスタッフが必要です。
⑦参加同人誌は希望があれば一定期間、青山ブックセンターに「文学フリーマーケット」としてコーナーを設け、書店販売を致します。詳細は8月に送付する文書で。現在、必要なのは
1、当日、机を並べる、参加者の受付をするetcの当日の雑用の参加者。
2、より多くのお客さんに参加してもらうべく努力として各「文芸誌」からアニメ誌までなるべく多くの場所に告知を載せますが、それとは別にフライター(これはぼくの方で用意します。チラシです)をお住まいの近所のお店に置いていただけるようお願いに行っていただく方。
です。是非、お時間のある方、御協力、お願いします。
この文書で、文学フリマが実際に開催されることがはじめて伝えられ、日程と会場が明らかにされました。また同時に、名称が「文学コミケ」ではなく「文学フリーマーケット」となること、市川真人さんが共催であることなども伝えられています。
ちなみにこの段階での連絡先の名称は「『文学フリーマーケット』準備会 大塚英志」となっていました。「準備会」という表記はコミックマーケットのそれを踏まえたものでしょう。
この文書の後、8月中旬には参加希望者の元に「第一回文学フリマ参加申込案内書」が送付されました。この書類には文学フリマへの参加要項と、いわゆるサークルカットの付いた申込用紙、会場までの地図などが載っていました。「開催日時 2002年11月3日(日) 11時開場〜17時終了」「場所 青山ブックセンター本店カルチャーサロン青山」と、より正確な情報が明記されています(先の文書に書かれていた開催時間より一時間短くなっています)。参加費が2000円であるという情報もこの案内書が初出です。また、主催は「文学フリマ事務局/大塚英志事務所」という名義となり、準備会という表記は姿を消しています。さらにこの「参加申込案内書」には、その後、文学フリマのマスコットとして親しまれることとなる西島大介さんデザインのパンダが登場している点も見逃せません。
この案内書には「出店される方たちへ」という項目があり、これが参加要項となっています。
「文学フリマ」は「文学」に関わる同人誌・自費出版物を中心とした即売会です。「コミケ」と聞いてピンとくる方は「文学」オンリーイベント、こない方は「文学」に関する本や雑誌の作り手が自ら出店するフリーマーケットと考えて下さい。
参加資格は原則として個人もしくはサークルです、企業としての参加も拒みませんが、大手出版社であろうと、他の個人参加者と同一の条件下で参加していただきます(当日の会場の準備その他にも参加していただきます)。それらの人々が、自分や自分の仲間が関わった「文学」に関する本や雑誌を机一つ分のスペースで手売りする、というイベントです。主として同人誌・自費出版物を対象としますが、作家や編集者が自身が関わった著作物、出版物を自ら手売りする場合は商業的出版物も可とします、「文学」の定義は各自の解釈に委ね、また販売可能なのは本や雑誌に限らず、とりあえず「モノ」の形をとっていれば各自の良識の範囲内で出店して下さって構いません。別にTシャツを売ってもOKです。
ただし、下記のものは今回は御遠慮願います。
①古書、古本、新古書(自著、もしくは自身が関係した出版物はこの範囲ではありません。古書店の方の出店及び家で眠っているもう読まない本を出品する、というのは今回はNGにします)。
②無許可で複製するなど、パロディや引用の域を超えて第三者の著作権を侵害するもの、その他に関してはことさら制限を設けませんが、他の参加者や会場を貸して下さった青山ブックセンターに直接、迷惑がかかってしまうものの販売及びそれに準ずる行為は御遠慮下さい。一つの「場」を共有する以上、販売物には自己責任にプラスして、このイベントに関わるあらゆる人々への責任がある、というのが文学フリマの一番基本のルールだと考えて下さい。このルールの中で各自が各自のモラルに従い、判断して下さい、出店なさる方はこのルールを共有して下さることが前提です。これらの出店ルールは回を重ねていく中で更新されてしかるべきものですが、初回は以上のルールをとりあえず出発点にしたいと思います。
さて、以上のルールを共有して下さり、且つ参加手数料(会場費その他で必要となる実費の頭割りです)を1スペース(会議室の長机半分と考えて下さい)につく2000円を御支払いただいて出店していただいても、当日お客さんが来てくれて、あなたの「文学」を買ってくれる保証は出来ませんので、それでも自分の考える「文学」を携えて、読者と直接、向かい合ってみたいという人々の参加を心よりお待ち申し上げます。
大塚英志
これは大塚さんの記名原稿の形をとっており、厳密に言うと要項とは言えないのかもしれません。ただし、文学フリマの主旨や、出店に関する禁止事項などはその後の要項に踏襲される内容となっています。ともかく、イベントの具体的な体裁が明記されたこの「参加申込案内書」が発送された段階で、参加希望者ははじめてこの「文学フリマ」が確実に開催されるものであることを実感できたと言えるかもしれません。
案内書に記載された手順に従って申込用紙と出店料を送付した人には、出店受理通知のハガキが送られてきました。これは事務局が出店料を受理し、申込が完了したことを知らせるものです。そして、開催日約10日前に参加の詳細が書かれた出店要項が送られることが案内されている簡単な内容でした。
そして実際、開催日のほぼ10日前にこの出店要項が申込者に送付されました。これは当日の会場入りの時間や手順、会場での諸注意、宅配便での搬入方法などが記載された案内ですが、文章のそこかしこに大塚英志節が見て取れる非常に奇妙な書類でした。例えば要項の序文は以下の通りです。
「文学フリマ」への参加お申し込みありがとうございました。出店される皆様は下記の各項に従ってご参加下さい。後でそんなの聞いていない、と言われても困りますので、じっくり読んで厳守して下さい。
当日の参加サークル数は70を超える見込みですので、会場が出店者だけで相当窮屈になることが予想されます。他方、一般参加者に関しては、文学系の雑誌に告知を依頼しましたが、必ずしも全誌に掲載されたとは限りません。初めてのイベントなので、入場者に関しては全く予想がつきませんが、何千人ものお客さんが来ることだけはありません。
念を押すようですが、一冊も売れないかもしれないことさえ覚悟の上でご参加ください。
また、当日の参加手順を説明する各項の中に、以下のような項目もありました。
・この「文学フリマ」は『群像』誌上で申し上げた通り、今のところ今回、一回のみの開催です。今回はぼくの事務所と『早稲田文学』市川真人さんの全くのボランティアで一切の実務が行われました。けれども2回目以降に関しては今回の出店者の中から自発的に第2回実行委員会が名乗りを上げて下さることを希望します。十数万人を集めるコミックマーケットも、最初はこの「文学フリマ」程度の規模でした。当日、イベント終了時に次回を開催したい人は名乗りを上げて下さい。幸いにも第2回開催のための事務局が発足できたら、参加費の余剰金や一切のノウハウをその人たちに引き継ぎます。開催地は別に東京でなくても、自分の地元の市民ホールの会議室でも全くOKです。11/3より半年以内に第2回開催の事務局が皆さんの手で発足しなければ、参加費の余剰金をアフガニスタンかどこかに全額寄付して、その領収証のコピーを出店者に送付して、このイベントは第一回目にして終わりになります。頭割りして出店者に還元することも考えましたが、「文学」が「世界」に開かれるためのイベントで残ってしまったお金が、そのイベントの存続のために使われないのなら、皆さんにではなく「世界」に返してしまおうと思います。どこに寄付するかはぼくの思いつきで、その時点で決めます。
これは参加者への奮起をうながす大塚さんの挑発ではなかったかと思います。ただ、この文章を、参加者が厳守すべき項目のひとつとして扱ったことに出店参加者として名を連ねていた鎌田哲哉さんが異論を唱え、大塚さんとの議論の後、イベント当日のトークショーの議題として取り上げられることになりました。
さて、出店参加者に送られた出店要項には、もう一枚、文書が同封されていました。それはなんと大塚さんの手書きメッセージのコピーであったため、参加者を大いに驚かせました。その文章を以下に紹介します。(注・実際は手書きの原稿。表記は原文ママ)
参加者各位
・文学フリマまで残すところわずかとなりました。
同封したワープロ打ちの文書が参加申し込み書にあった、開催10日前に届く「出店要項」です。よく読んだ上で、当日は封筒ごと自参下さい。
封筒に記入されたナンバーで事務が処理されます。机の配置に関しては今、調整中です。普通のイベントだったらこの時点で決まっているのに、なんて言わないように。事務局っていったって、ぼくとぼくのアシスタント一人しかいなくて、この発送も「群像」のゲラ待ってる間に自分でやってるんだから、そのあたりはわかってください。・交通手段に関しては渋谷から歩け、と書いてありますが別に地下鉄の表参道でも構いません。こっちの方がちょっと近いです。歩いて来てね、というのは、持ちきれないほどの本を持ってきても多分、そんなに売れないよ、ということです。青山ブックセンターには1日、千人近いお客さんが来ますし、向かいの青山大では学園祭をやってます。当日は誰かがサンドイッチマンになってそれらのお客さんを引っぱってこようと思っていますが、はっきり言って出店者及びその関係者の方がお客さんより多いことも考えられます。その点はくれぐれもカクゴして下さい。ぼくと市川くんなりに“客寄せ”の努力はしましたが、やはり問われるのは「文学」がどこまで人に足を運ばせる力があるかです。お客さんが少なかったら参加者同士、自著の物々交換会になるぐらいのつもりで来て下さい。
また、友人、家族その他、知りあいを一人でも二人でも引っぱって来て下さい。何か、マルチ商法みたいですが、そういう見苦しい努力も今の「文学」には必要だと思います。それでは当日、お会いしましょう。
大塚英志
繰り返しますが、いち参加者としてこの文書は本当に驚きました。内容的にもすごいことが書いてあるとは思いますが、これが手書きで送られてくるわけですから、文学フリマというイベントがどれほど行き当たりばったりな状況で進行していたか想像できるというものです。事実、主催組織には便宜上「文学フリマ事務局」という名前がついていましたが、第一回は大塚さんの事務所のスタッフ肥田野さんがほとんどの実務を行っていたようです。つまり運営スタッフは、大塚さん、市川さん、そして肥田野さんの三人しかいなかったということになります。
しかしそれでも、会場と日程の調整、参加者募集告知、開催告知、参加者への案内通知など必要な作業を一通りこなし、「第一回文学フリマ」はイベント当日を迎えることになります。
第一回文学フリマ
「第一回文学フリマ」は2002年11月3日(文化の日)、渋谷の青山ブックセンター本店・カルチャーサロン青山にて開催されました。カルチャーサロン青山はもともと同人誌即売会が行われるような場所ではありません。部屋としては三つに分かれており、作家のトークショーなどが行われる大きい部屋がひとつと、会議室やカルチャースクールの部屋として使われる小さい部屋がみっつという構造です。文学フリマの参加サークル約70ほどが、この四部屋に分散して配置される形になっていました。同人誌即売会としては非常に特殊な環境と言えるでしょう。
大塚さんが事前の文書で「はっきり言って出店者及びその関係者の方がお客さんより多いことも考えられます。その点はくれぐれもカクゴして下さい」と強調していたように、いったいどれだけの人が来てくれるのかという点については事務局も、そしておそらく多くの出店者も不安を抱いていました。青山ブックセンターに訪れるお客さんが文学フリマの会場に流れてきてくれることを期待するにしても、会場はやや閑散としたムードになるのではないかという見方が一般的でした。しかし、結論から言うと、来場者数は約850人。出店(関係)者を合わせれば1000人を超える人が会場を訪れる盛況となりました。この数字には、のちに文学フリマの「伝説」として語られるひとつの事件が関係しています。
もともとプロの参加を呼びかけていた文学フリマですが、大塚さんの言う「客寄せの努力」として、ネット上や雑誌などのオフィシャルな場所で参加予定のプロ作家名を一部公表していました。その数少ない事前情報の中に講談社ノベルスで活躍する佐藤友哉さんの名前があり、ファンの間でかなり話題となっていたのです。また言わずと知れた大型匿名掲示板「2ちゃんねる」では、開催日の二日前に「ユヤタソの本って、●談社の●田企画で、他の執筆者が西尾●新、イラストが舞●王太郎という豪華レアものらしいね」(伏せ字原文ママ)という書き込みがあり、より一層の期待感を生み出していたようです。結果としてこの書き込みの情報は非常に正確であったので、集客を狙った関係者のリークという噂もあります。
ともかく、この事前情報が広まり、第一回文学フリマ当日にはこの同人誌目当てのファンが多数訪れることとなりました。開場時から数十人の行列が形成され、ブースの小部屋から会場の外まで列が延びてしまう形となったのです。
のちに私が大塚さんをはじめとする第一回事務局関係者に聞いたところ、誰もが口を揃えて「まさか文学フリマで行列ができるとは考えていなかった」と語っています。この見込みが混雑対応への不手際に繋がったことは否定できません。当日に一般来場者として会場に足を運んだ私の知人はその時の様子について、「俺が行ったときはもうすごい行列があってさ。実際アレ、入場するための列だって勘違いした人かなりいたんじゃない? 並んでる人に『これ入場する列ですか?』って聞いたら『えっと、わかりません』って言われたもん(笑)」と証言しています。これは形成された行列のさばきが充分でなかったばかりでなく、来場者の誘導にも混乱をきたしていたことを示しています。
また、出店者側から見ても、この混乱は人ごとではありませんでした。カルチャーサロン青山の構造上、部屋の中から外まで列が延びてしまうと入口を塞ぐこととなり、同じ部屋のサークルはお客さんにほとんど接することができない状態となってしまったのです。これには当然、不満の声があがりました。
この行列に並んだ人数は、250人にも及んだと言われています。そして、そこで販売された同人誌「タンデムローターの方法論」は講談社の太田克史さん編集で、佐藤友哉さん、西尾維新さん、舞城王太郎さんというメンバーが参加していました。この本はのちに文芸誌の世界に旋風を巻き起こす雑誌『ファウスト』のプレ版として位置づけられ、今でもファンの間で語りぐさとなっています。ちなみに『ファウスト』の創刊号は2003年の9月に発売。この中で斉藤環さんが「あの伝説の『文学フリマ』があったでしょう。佐藤さんのつくった同人誌に巨大な列ができたという」と発言している箇所があり、佐藤友哉行列事件が一年経たずして「伝説」と化していたことが確認できます。
さて、この行列事件と並び第一回文学フリマのトピックと言えば、大塚英志さんと鎌田哲哉さんのトークショーが行われたことでしょう。これはイベント開催時間中に行われたものですが、私の知るかぎり、トークショーについては出店要項の中に「当日、会場でトークイベントを予定しています」と書かれていただけで、事前告知はほとんどありませんでした。この企画にどれだけの集客力があったのか、疑問ではあります。
トークショーは文学フリマそのものが議題となっていました。まず、始まる前に会場の人たち(出店者・一般来場者共々)に鎌田さん側よりB4用紙五枚綴り(!)の資料が配付されました。資料は「「文学フリマ」への参加と、それを恒常化する条件についての個人メモ。」と題されており、鎌田さんのレジュメ2枚、問題となった出店要項1枚、そして当日までに鎌田さんが大塚さんへ送った壮絶なFAXのコピー2枚で構成されていました。その上で、事前に鎌田さんが出店要項の第9項にあった「第2回開催の事務局が皆さんの手で発足しなければ、参加費の余剰金をアフガニスタンかどこかに寄付」するという部分を強く問いただした経緯が説明されました。要項の「各項に従って」「厳守して下さい」「最終的な判断はぼくが行います」といった文言から、鎌田さんはこの文書が「提案」ではなく「約款」であるとし、そこに参加者の了承もなく寄付についての項目を入れたことに抗議。大塚さんもその非を認め、当日に残額の還付を希望するか否かの文書が出店者に配られることになった、というものでした。
トークショーの内容を端的に説明するなら、文学フリマにまず理論的理念的部分での確立を求める鎌田さんと、とにかくイベント開催という実務を最優先した大塚さんとのやりとりであったと言えます。鎌田さんは大塚さんが文学フリマ参加者へ送った文書が自分の「ホーム」でしか戦おうとしない姿勢だと述べ、また、イベントを恒常化させるにはボランティア労働であることを自明視せず、運営者に払える範囲での対価を払う習慣が育つ見込みを残すべきだと主張しました。大塚さんはイベントに関するすべての責任を負いたくて文章の性質が厳しくなったと述べ、なにより文学フリマを引き継いでくれる有志が名乗り出てくれることを求めているのだと訴えました。
ただ、こういった討論に終わりがあるはずもなく、トークショーは文学フリマのスタッフである肥田野さんの突然「ハイ! ここで乱入です! 福田和也さん、坪内祐三さんです!」という強引な進行で打ち切られました。「乱入」と言っておきながら、登場時にあらかじめ用意していた入場テーマが流れるという、まさにプロレス的な仕込みでした。ここで福田さんがなぜか「僕はすばらしいモノを見つけた!」と言って藤林靖晃さんの本を取り出し、坪内さんと大塚さんが「それは僕も驚いた」と絶賛する一幕がありました。この出来事をきっかけとして、すでに六〇歳を過ぎていた藤林靖晃さんは再び文芸誌で作品を発表し始め、単行本を上梓することになります。これも文学フリマにまつわる有名なエピソードのひとつです。
それから坪内さんが「僕は今日、鎌田君に一冊の本を渡すためにここに来たんだ。『海辺のカフカ』の男のように…(場内爆笑)」と言い、「批評空間」の編集長だった故・内藤裕治さんへの献呈サインの入った柄谷行人氏『トランスクリティーク』英語版を鎌田さんに渡すというネタを披露していました。
一方で、このトークショーは出店者に思わぬ負担をもたらしていました。トークショーは会場のいちばん大きな部屋で行われていたのですが、当然ながら人の流れはそこに集中し、他の小部屋みっつにはほとんど人がいなくなってしまったのです。出店者としてはトークショーの最中はまったく本が売れないのですから、たまったものではありません。実際その場でスタッフに苦情が寄せられていたようで、大塚さんも「さっきからトークショーのおかげで本が売れないという苦情が来てますので(笑)、ここで終わりたいと思います」と言ってトークショーを締めていました。この時の教訓から、第二回以降の文学フリマでは開催中になんらかの企画を行うことには慎重な態度を貫いています。
とにもかくにも、第一回文学フリマはさまざまな問題が発生しつつも、予想以上の来場者を集め、大きな盛り上がりを見せました。何を持ってイベントの「成功」とするかは意見の分かれるところですが、この第一回文学フリマに関しては、文学に予想以上の集客力があったこと、そしてなによりも「事務局の運営を引き継ぎたいと名乗り出た有志が何人もいた」ことを持って、成功であったと断言できます。イベント終了時に、もし事務局の運営を引き継ぎたいという人がいれば受付で連絡先を書くように伝達があり、十数人がそこに名前を書いていきました。その中の一人に、私もいたのです。
第二回開催へむけて
第一回文学フリマ終了後、参加者の中から運営の引き継ぎに名乗り出た人たちへ向けて、あらためて事務局への参加意志を確認する文書とミーティングのお知らせが郵送されてきました。そして年が明けて2003年1月19日、今は亡き新宿の談話室滝沢にて、第二回文学フリマ事務局立ち上げのための会合が開かれました。この場には第一回の事務局側として大塚さん、市川さんの他にスタッフの肥田野さんや白倉由美さんも出席しており、引き継ぎに名乗り出た有志が10人ほど来ていました。この顔合わせの会合と続く二回目の会合によって私が事務局の代表となるのですが、そのあたりの経緯は文学フリマ公式サイトの事務局通信で書いたことがあります。それをここに採録しておきましょう。
「私は如何にして悩むのをやめ文学フリマの代表となったか」
私がエキサイトブックスの取材を受けた時、インタビュアー女史の質問の中で印象的なものがひとつあった。それは「望月さんはもともと大塚さんとはお知り合いだったんですか?」という問いである。なぜ印象的だったのかと言えば、その質問は一般の方からすれば当然興味のある事柄であるにも関わらず、私にとっては今更答えるまでもないような(そして今更聞かれるとは思っていなかった)部類に属する質問だったからだ。
そもそも文学フリマは大塚英志・市川真人両氏の主催は第一回限りであり、第二回以降は自発的に名乗り出た人たちが事務局を引き継いで行わなければイベントそのものが消滅するということを前提として開催された。これはつまり、大塚氏が『不良債権としての文学』(「群像」2002年6月号)の中で提案した「試み」の是非を問うことに他ならない。イベント自体の成功とは別に、第二回の事務局に名乗り出る人がいるかどうかで、大塚氏の提案が支持されたのか否定されたのかが明らかになる仕組みであった。
文学フリマが生まれる発端となった論争のもう一方の当事者、笙野頼子氏は『ドン・キホーテの返信爆弾』(「早稲田文学」2003年11月号)の中で「どうして今では論争好きなのかなー。実践派ならば実践のフリマを自分の手で「引き受けて」お続けになれば……」と書かれていたが、この指摘は半分は正しく半分は間違っている。たしかに大塚さんは自分の「理論」に一定の正しさがあることを証明するために、つまり「論争」のために第二回以降を一般の人たちに任せたのであり、その為には自らの「実践」は第一回だけで十分だった。しかし、もし文学フリマを引き継ぐ人が誰もおらず、第二回以降も大塚さん自身が「引き受けて」続けなければならなかったとしたら、その時点で大塚さんの「実践」は明らかに失敗だったのであり、「実践派」であればこそ文学フリマ継続の道を捨てて別の実践に移るのが賢いやり方であっただろう。
このような経緯を踏まえれば、私が「もともと大塚さんとはお知り合い」などということはあってはならないのだ。例えばもし私が「大塚氏の小説教室の生徒」だったりしたら、文学フリマは理論の面でも実践の面でも失敗であったとしか言いようがなく、大塚は体裁を保とうとして内輪の人間にイベントを引き継がせたのだと批判されるだろう。逆に言えば、私が第二回文学フリマの事務局代表を務めえたのは、大塚氏の内輪の人間ではないという条件を満たしていたからであり、私はそのことに自覚的であった。だから「望月さんはもともと大塚さんとはお知り合いだったんですか?」という質問が意外だったのである。その質問は聞くまでもないということはわかりそうなものなのに、と思ったのだ。
事務局通信にしても、大塚氏が事務局の運営に直接関わってはいないということを説明するために始めたようなものだ。「文学フリマが大塚氏の手を離れ」たという事実をアピールすることは、第二回を開催する上で必要な戦略だったのである。しかし、私はそのことにこだわり過ぎていたのかも知れない。そんな話はどうでもいいという人も大勢いたのだ。「望月さんはもともと大塚さんとはお知り合いだったんですか?」とは、なんと素直な質問だろうか。私はどこかで、一般の人々はみな文学フリマに対して疑惑の目を向け、要項や告知のひとつひとつを深読みしてくるのだと構えていたのかも知れない。もう少し素直になって、語りたいと思う。私はいかにして文学フリマ事務局の代表となる決意をしたのか。その個人的な動機の軌跡を。
第二回文学フリマの事務局を立ち上げるにあたり、引き継ぎのための会合が二度にわたり開かれた。一度目は2003年の1月に行われ、会合場所には第二回事務局に名乗りを上げた近い人たちが集まっていた。第一回事務局側としては大塚英志さんと市川真人さんの他に、第一回文学フリマの実務をこなしていた大塚事務所の肥田野さんや、白倉由美さんの姿もあった。
私はといえば、こういった方々を前にして人並みに、いや人並み以上に緊張していた。繰り返すが、私は「大塚さんとはお知り合い」などではまったくなかった。では何だったのかといえば、要するに大塚さんや白倉さんのファンだったのである。私が事務局に名乗り出た理由のひとつには、単純なファン心理があったことを否定はしない。
また市川さんは私の大学での指導教諭と縁のある方で、どんな人物なのか興味を持っていた。市川さんはちょうど私の真向かいに座ってノートパソコンを広げていたのだが、考えていた以上に若く、またかなりの男前だったので驚いた。
会合はまず集まったメンバーの自己紹介からはじまった。大半が学生だったが、幾人か三十代の社会人もいた。そのうちの一人は編集者だそうで、大塚さんとは以前からの知り合いで文学フリマというイベントが面白そうなので参加したのだと話していた。それから大塚さんが事務局の仕事の内容を具体的に紹介し、結局のところ何か特別なスキルが要求されるようなことはなく、素人でも真面目に取り組めば出来ないことはないのだと説明した。事務局といっても大塚さん、市川さんに肥田野さんを加えた三人程度でやっていたのが実状だったという。もっともだからこそ他の仕事のついでに文学フリマの打ち合わせもできたし、やりやすい面もあったと笑っていた。
それから事務局の方向性という点に議論が移った。この場に集まった人たちは第二回を開催する意志を持って集まったのだが、文学フリマというイベントが今後も第三回、第四回と続いていくことを前提にするのか、とりあえず第二回を開催する事だけを考えて動いていくのかという意識統一を図るべきという話になった。メンバー個人が第二回終了と共に事務局を離れるのは当然自由だが、事務局の意志としては継続を前提としていくということでまとまったはずだ。その他にも、大塚さんが文学フリマのあり方をどう考えているのか、様々な側面から述べていた。中でも、同人誌即売会だからといってアンチ商業主義やアンチ文壇といった思考に傾いてはいけないと思う、参加者を限定するようなイベントにしてはいけないといった意見は、今でも尊重しているつもりだ。
そして、この会合において一番の議題は、代表者を決めることであった。例え合議制で事務局の意志決定を行うとしても責任の所在を明らかにするための代表者は必要である、という大塚さんの説明は理解していたものの、ではどうやって決めればいいのか皆一様に困惑していた。また、それは大塚さんがどうこうして決められる事柄でもなかった。ただ、大塚さんは暗に誰かが代表に立候補することを期待しているのだと私には感じられた。
私はあらためて周囲のメンバーを見渡してみた。年齢や経験が上だからといって時間的制約の厳しい社会人が代表になるのは難しいかもしれない。フリーターもいるが、社会人以上に忙しいフリーターの友人を私は何人か知っている。そう考えるとやはり学生が代表を務めることになるのだろうか。そして自己紹介を聞いた限りでは皆学部生であり、四月から大学院生になるのは私だけのようだ。
私は次第に落ち着かなくなってきた。私の立場は代表を務めるのに向いているのではないだろうか。しかしそれは私の能力や人格には関係なく、ただその環境がふさわしいというだけに過ぎないのだ。そして裏を返せば、私は社会経験をまったく持たない若者であって、代表者として周囲の信頼を得る自信がなかった。
その場では「代表者が何をするのか、何が必要なのか想像できないので、この場ですぐに決めるのは難しいと思います」といった発言をしたように記憶している。私は個人的な気持ちとは別に、代表者を立候補以外の形で選出するのは困難だと感じていた。今日初めて顔を合わせた者同士で投票など成り立つわけはないし、大塚さんや市川さんが第二回事務局の代表者決めに口を出すこともありえない。その日の会合にはもはや手詰まり感が漂っていた。
結局、使用した会場の終了時間がせまり、代表者の選出は次回の会合に持ち越すこととなった。とりあえず連絡先を集めて、メーリングリストを作り次回会合の場所と日時を決める必要があった。その当面の連絡係は先の編集者の方が引き受けてくれることになり、第一回の会合は終了した。
その後、メンバーの一部は喫茶店に場所を移して話を続けることになった。今度はもっとざっくばらんな会話が弾み、次回の会合でそれぞれが第一回に出した本を交換する約束なども交わした。先々に不安はあったものの、第二回事務局には人数も集まったし、皆それぞれに情熱もあるようだった。私は、少なくともこれで文学フリマが第一回かぎりで終わるようなことはないだろうと確信していた。
半ば顔見せのような形で終了した最初の会合の後、市川さんが提供してくれたメーリングリストで事務局メンバーのやりとりが始まった。まずはメールがちゃんと届いているかどうかを確認し、それから次第に運営に関する意見も出るようになっていった。この間にMLの設定を整えてくれた市川さんや、連絡係を引き受け次回会合の日程を取りまとめた編集者の方の文面を見て、私はなんとなく信頼を感じていた。
MLでは会場をどうするかといったことや、やはり代表者は決めるべきだろうといった意見が流れ、私も出来る限り発言をするようにしていた。一部まったくと言っていいほど発言をしないメンバーもいたので、より発言しやすい空気を作ろうと意識していた記憶がある。私までMLに発言せずにいたら、本当に二、三人だけでやり取りをしている状態になってしまいそうだったのである。
一方で私は次の会合のことを考えていた。次回開催会場については、すでに一定の方向性で意見が固まりつつあり、さほど揉めることはないだろう。ただ、事務局内の担当者決め、特に代表者をどうするかという点についてはまったく読めなかった。私は最初の会合で思案したことを冷静に再考してみた。私が代表者になるべきだろうか。打算的に考えてみれば、文学フリマの代表になることは私にとってプラスであることは間違いない。また大学院生という社会的立場は対外的にも有利に働いてくれるだろう。しかしそれだけで本当に私が代表として文学フリマを引っ張っていけるのかどうか、自信が持てないでいた。結局代表者になれそうな環境に甘えているのではないかという思いがあり、自分なりに引け目に感じていた。文学フリマの代表になるべきか否かという問題を前にして。私は自信のなさを打算でごまかそうとしていた。
心の中で躊躇していた私を決断に導いてくれたのは、大学での私のゼミの教官であり、大塚さんの「不良債権としての『文学』」と出会うきっかけも作ってくれたI先生であった。I先生は第一回文学フリマでわざわざ私のブースまで激励に訪れてくれたことがあり、私が事務局に参加したことも知っていた。そんなI先生との間でふと文学フリマの話題が出た時、私は「もし事務局の代表になるチャンスがあったら、なるべきでしょうか?」と聞いてみたのだ。先生は「そりゃあやったほうがいいよ。望月君がやればいいじゃない。絶対やったほうがいい」と即答してくれた。教え子に対して先生がそう答えるのは当然のことだろうとわかってはいた。しかし、この言葉で踏ん切りがついたのも確かだ。どうせ事務局に参加したのなら、もうとことんやれるところまでやればいいじゃないか。そんな風に思えたのだ。
しかし、私はまた別の問題を気にしはじめた。もしも、次の会合で私の他にも代表者に立候補する人がいたらどうしたらよいのだろうか。皆で投票でもするのだろうか。その場合負けた方は事務局にいづらくなるような気がするし、遺恨を残すかもしれない。では恨みっこナシでジャンケンでもして決めれば公平なのだろうか。到底そんなことで話が収まるとは思えなかった。そこでまず周囲の出方を窺ってから自分の態度を表明することにした。他に立候補者がいるならそれはそれで構わないという気持ちもあったし、自分の決意にどこか逃げ道を作っていたのかも知れない。
こうして私があれこれと悩んでいる内に二回目の会合の日がやってきた。 2003年2月16日、場所は高田馬場のルノアールだった。
この日の会合は市川さんが欠席だったものの、大塚さんや白倉さんや肥田野さんは出席していた。連絡係を引き受けてくれた編集者の方が作成してくれたレジュメが配られ、前回の会合で必要とされた第一回文学フリマのデータなども肥田野さんから提供された。そして話題は事務局メンバーの役割決め、そして代表者選出について移っていった。まず前提として、完全合議制ではなく誰か代表者を立てるという点で皆の意見は一致していた。問題は誰が務めるか、であった。私は誰かが立候補するだろうかと周囲を窺っていた。すると一人が口を開いた。しかしそれは思わぬ展開をもたらす発言であった。
彼は「今まで連絡係を務めてくれた方なら、編集者ということで経験もあるし代表者にふさわしいんじゃないかと思いますが」と提案したのだ。すると言われた当人は困惑した表情を見せ「いや僕は……」と口にしたのと同時に、大塚さんがこう答えた。
「いや、彼はササキバラ・ゴウというペンネームでぼくと共著を出していて、もうぼくとの付き合いは十何年になるし、いわばぼくの内輪の人間であってね。もし彼が事務局の代表やらなくちゃいけないような事になったらそれは最悪のケースだなって考えてたんだよ」
私はその共著書であるところの『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)を読んでいたので、驚くと同時に納得もした。「言われてみれば……」というような点がいくつもあったのだ。
しかしこれで会合にはやや気まずい空気が流れてしまった。それは多くのメンバーが「こうなると代表者決めがまたも難航しそうだ」と感じたからだろう。私は切り出すなら今しかないと思った。下手に話し合いが長引いてから立候補すれば「仕方なく名乗り出た」という感じになっていかにも格好が悪い。それでもいざ言葉を発しようとすると私は弱腰だった。
「あの……僕が立候補するというのは、まずいですかね?」
ひどく遠慮がちに、小さな声でこう発言した。
「いやいや、立候補、もちろんいいよ!」
大塚さんが即座に答えてくれたので、私は話し始めた。
「僕はいちおう学生で社会人よりは時間がありますし、大学院生ということで、まあ社会的に普通の大学生よりは信用されやすいみたいなところもありますし、あとはメンバーに社会人の方もいますし、そういった方がサポートしてくれれば出来るかなと思ったのですが……」
皆は黙って聞いていた。私の言葉が途切れて一瞬の沈黙があった。一瞬の沈黙。それでも私はかなり萎縮した。何か反対意見が出たらどうすればよいのか……。
その沈黙を破ったのは、それまであまりしゃべることのなかった白倉さんだった。
「じゃあ、もう決まりでいいんじゃない?」
この言葉に一同がうなずき、そして拍手を持って私の代表就任が認められたのだった。私は素直にうれしかった。会合の後、白倉さんとは第二回文学フリマ当日までお会いすることもなかったが、この時の一言には今でも感謝している。
2003年2月16日。この日から私の文学フリマ代表としての日々が始まった。
これが私が文学フリマ事務局代表になった経緯です。ちなみに、文中にあるI先生というのは文芸評論家の伊藤氏貴先生のことです。この文章を書いた2004年当時、私はまだ大学院に在籍していたので度々顔を合わせており、気恥ずかしくてイニシャルにした記憶があります。伊藤先生は私が学部のゼミ在籍中に群像新人賞の評論部門を受賞しました。そしてその受賞作が掲載されたのが『群像』の2002年6月号、つまり「不良債権としての文学」と同じ号に掲載されていたというわけなのです。私は『群像』を定期的に購読していたわけではなく、ときどき図書館で眺める程度でしたので、この偶然がなければ文学フリマを知ることもなかったかもしれません。
さて、こうして私が代表となり、新たな文学フリマ事務局が発足しました。第二回開催のために集まったメンバーは10人ほどで、こういったイベントの運営など皆初めてでした。話し合いの結果、文学フリマというイベントを継続的なものにするために、今は地盤固めが最優先だろうということで、あまり冒険はせず第一回と同じ場所で、同じ規模のイベントを確実に開催することを目標としました。実際、運営側のメンバーは全員第一回ではいち参加者だっただけなのですから、即売会運営のノウハウを自分のものにすることで精一杯だったのです。
当初の私はメーリングリストでの意見の集約もままならないような有り様でしたので、大塚さんや市川さんにはご心配をお掛けしたようです。間接的に「いくら合議といったって最終的な決定はキミが下すしかないんだぞ」と叱咤されたこともありました。私は皆の意見をまとめつつ、そこに自分なりの考えを入れていくようなやり方を試行錯誤していくようになりました。その基盤として、大塚さんの作った理念を引き継ぎつつも、大塚さんからはある程度の距離をおくべきだという私の考えがありました。
正直に書けば、新事務局の発足から第二回開催へ向けて動いていたこの時期、私との意見の相違で事務局を抜けていった人もいました。その人は私の作成した募集要項、特に文学フリマの理念的な部分の文章に対して、一方的に「曖昧なナアナア性を強く感じた」と言って去っていきました。しかし、私は第一回の時に「大塚英志」という個人名のもとで参加者に郵送されていた要項をそのまま(あるいはもっと思想性を強くして)踏襲することなど不可能だと考えていました。先にも触れたように大塚さんの文章が「イベントに関するすべての責任を自分が負う」という意図で書かれていたとすれば、私たちは逆に「イベントに関するすべての責任を参加者全員が担う」という方向性にシフトすべきだからです。参加者がなんでも事務局任せの意識になってしまっては、イベントが駄目になっていくことは明白です。文学フリマを継続的なものにするためには、参加者に自分たちも文学フリマを創り上げる立場なのだという意識を持ってもらう必要があるでしょう。そこでは大塚流のすべての責任を負う態度は必要としません。文学フリマ事務局は文学のための新たな「場」を提供するニュートラルな存在であり、100を超える参加団体のバランスをとる調停者として力を持つ程度で充分でしょう。それを曖昧でナアナアと言われても正直困りました。ただ、違う意見にさらされることで自分の意見がはっきりしてくることもあります。文学フリマは参加者の作品の質は一切問いませんが、参加者の意識の高さは求めるのです。
やや話がそれてしまいました。このころ、私の仕事として大きな比重を占めていたのは、会場の青山ブックセンターとの交渉でした。第一回の時の担当者が異動となっており、青山ブックセンターの新しい担当者と新しく関係を作り上げていく必要があったのです。また、第二回文学フリマの事務局は、第一回ができなかったことや失敗したことを修正していくことにも務めました。毎年送っている出版社や雑誌の編集部へのプレスリリースも第二回からはじめたことです。また、宣伝用のフライヤーも作りました。ただ、参加サークルカタログについては労力と予算が追いつかず、結局B4の紙一枚に会場のサークル配置図とサークル名の一覧のみが載ったものを配布するに留まり、当日を迎えることになりました。
第二回文学フリマ開催
第二回文学フリマは2003年11月3日(文化の日)、青山ブックセンター本店・カルチャーサロン青山で開催されました。日時・会場すべて第一回と同じでしたが、参加サークルは約100サークルまで増え、出店者、来場者あわせて1000人という大台も維持することができました。当日の様子については、私が事務局通信で開催の直後に書いたレポートから引用してみます。時間が経っていないうちに書かれたものの方が内容は確かでしょう。
第二回文学フリマレポート(事務局通信より)
前日設営を行った11月2日、長かった今年の夏の名残を思わせる快晴の一日。しかし、肝心の11月3日の予報は「曇りのち雨」。雨は大きな不安材料だった。青山ブックセンターの文フリ担当Sさんも「天気が心配ですね」と言った。「今日みたいに晴れてくれればいいんですけどね」「いや、こんなに晴れた日は人間あまり本屋に行こうとは思わないんで、曇りで保ってくれるのが一番です」。
明くる11月3日朝、家を出ると今にも降り出しそうな曇り空がひろがっていた。しかし私はあえて傘を持たずに青山へ向かった。文学フリマはその立地から言って、学園祭の行われている青山学院や青山ブックセンター本店から流れてくる来場者を相当数見込んでいるイベントだ。雨によって被る影響は大きいだろう。
私は来場者数をかなり気にしていた。出店者が充分集まった以上、このイベントが成功かどうかは動員数にかかっているのだ。本来ならやはり前回の数字を越えたいところなのだが、しかしプロ作家の参加が減った今回は普通に考えれば前回訪れた200〜300人の固定ファン層が見込めないことになる。私は正直言って厳しい結果になるかもしれないと感じ始めていた。
会場に着くと既にスタッフのOさんが来ていた。それから続々と事務局のメンバーが来て会場入り。まず前日の夜にコピーしたアンケート用紙を各ブースに配布し、同時にすばやく受付をセッティングして出店者の受付を開始した。
それまでのミーティングで、出店者受付から一般開場直後までの9時〜12時が一番忙しくなるだろうと考えていた。よって、この時間帯は受付およびA〜Dまでの各部屋担当者、入口の整理係を固定し、スムーズな対応を目指した。なお、私自身は不測の事態に対処できるよう特定の役割にはつかず、全体の動きを把握することに務めた。
約100サークルで一時間の会場入り時間というのはそれなりに余裕があり、受付が混乱するようなことはなかった。前日に郵送で搬入された荷物についても問題は起こらなかった。また、青山ブックセンターのSさんが「会場使用上の注意」をコピーして提供してくれた。これは本来事務局が徹底しておくべき事柄であり、感謝するとともにSさんの熱意を感じた。
サークルの入場は10時までとなっており、いくつか来ていない団体もあったが、すぐに全体への挨拶と当日説明を行うことにした。実は出店者に対する当日説明は第一回のやり方を踏襲している。普通の同人誌即売会ではこういったことは行わないと思うが、文学フリマの参加者は良くも悪くも即売会に慣れていない人が多い。なので事務局が安易に即売会の常識に頼った運営・案内を行うと危険な側面がある。当日に代表者が挨拶して注意事項を説明しておけば、事務局メンバーが個々に質問の応対に追われるようなことも少なくなるだろう。
それにしても、この時はさすがに緊張した。四つの部屋に分かれているので、全体説明を行うには一番大きなAの部屋にB、C、Dの参加者を集める必要がある。この人たちは「一体、何事だろう?」と興味津々で集まってくるし、Aの部屋の人たちは今か今かと私の言葉を待っている。まさに会場は静まりかえり、固唾を飲んだ状態で待ちかまえているのだ。
私は震える声を抑えながら「みなさん、おはようございます」と挨拶した。すると「おはようございます」と参加者たちから声が返ってきた。私にはその返事がとても誠実で熱意に溢れたものに感じられた。
そう、これが文学フリマの出店者なのだと理解した。
午前11時の開場時間まであとわずか。雨はまだ降り出してはいなかった。
出店者への挨拶の後、各部屋担当者が見本誌集めに回った。会場外の方からは「そろそろ来場者が集まってきたので、列を作りました」と知らせがくる。 ちょっと覗いてみると20人ぐらいが並んでいる。開場30分前ぐらいなら、まあこんなものかと思う。
会場では出店者たちが着々と準備を進めている。チラシの配布やブースのディスプレイについていくつか質問が寄せられるが、問題なく対処していく。いや、少しばかり問題はあったのだが後述する。
とにかく開場時間が迫っている。事務局スタッフおよび青山ブックセンターの方と足並みを揃えて出店者に開場を通達。それから会場入口へ出て、来場者の列へ開場を宣言した。
驚いた。
先程見たときより列は先まで伸びており、さらに奥の壁で折り返し建物の入り口まで及ばんとしていた。少なく見ても80〜90人。100人近い来場者が開場を待ってくれていたのだ。その瞬間、私はこのイベントの成功を確信すると同時に、ちょっと焦った。ブースに行列が形成される可能性を持つサークルがいくつか頭に浮かんだ。まず「スウェード・キルシュ」だ。場内に戻るとすでにA室の入口が詰まりはじめていた。その場にいたスタッフと言葉を交わした。
「列、切りましょう!」
すぐに手書きで“ここは最後尾ではありません”と“最後尾はここ”の札を作り、入口が詰まらないように列を切った。悪くない対応だったと思う。
それから通路のカウンターへ行き、空調の設定温度を下げてもらうように話をした。あれだけの人が一度に入ったのだ。場内は文字通り熱気に包まれていた。「すごいですね、人が。じゃあ最低温度にしちゃいましょう」。カルチャーサロン青山の方も驚いていた。そばにはABCの担当者Sさんもいたので「すいません、一気に列ができて混乱してしまって……」と声をかけた。
「いいじゃないですか。列ができないよりはできたほうがいいですよ!」。Sさんは笑みを浮かべてそう言った。
開場直後は多少の混乱があったものの、しばらくすると場内は落ち着きはじめた。ただ、来場者は途切れずに入ってきているようだった。天気もまだ傘をさすかささないかという微妙な小雨である。
会場内ではとにかくA室とB室が暑かった。「今日は湿気も高くて……」とは青山ブックセンターSさんの言。またカルチャーサロンのKさんが「B室の後ろの扉を開けて風通しを良くしましょう」とおっしゃってくれた。こういったことは事務局ではなかなか気付けない。
ふとしたときに、ちょっと冗談で大塚さんに「いちおうスタッフじゃなくて出店者なんですから、売り子もやったらどうです?」と言った。すると次にすれ違ったとき大塚さんは出店証の隣にしっかりスタッフ証を付けていた。この話をササキバラ・ゴウさんにしたところ、「けっきょく大塚さんってワーカー・ホリックな人なんだよね」と笑った。そういう人なのだ、大塚さんは。ちなみに午後3時ごろには、大塚さんとササキバラさんの『教養としての〈まんが・アニメ〉』コンビで受付に座って配置図を配るということまでしていた。会場に来て驚いた人もいるのではないだろうか。
私は午後1時ごろに昼食をとりに会場を離れたのだが、その間に取材の方が来てしまったらしい。申し訳ないことをした。それ以外のときはなるべくA−6事務局ブースに座っているようにしていたのだが、やはり場内は暑かった。
午後3時ごろ、イベントはかなり“まったり進行”となっていた。
午後3時を過ぎた頃だろうか、雨が本格的に降り始めた。ただ会場内ではそれほどの混乱はなかった。それは雨だけでなく時間帯的にも来場者が減ってきていたからではないだろうか。
文学フリマは午前11時〜午後5時までと、即売会としては長い開催時間を取っている。一般的には午後3時か4時ぐらいで終了するイベントが多い。この点はアンケートを見ても賛否両論といったところだった。そのうち詳しく検討しよう。
いずれにせよ私としては、来場者が減ってきたら出店者同士のやり取りが増えていくだろうと考えていた。実際ある程度はそういった傾向が見られたように思う。
この時間帯の私はなるべく事務局ブースに座っているようにしていたが、やはりA室の暑さはつらかった。何回か会場の全室を見て回ったが、部屋ごとの温度差がかなりあると感じた。
終了時間が近付いてきて、搬出に関して事前に件数を把握することにした。もともと最寄りのコンビニまで荷物を持っていってもらう方針だったのだが、この雨が少々問題だと思った。また、あまり件数が多いと先方が混乱する可能性がある。結局、20件ほどあったので、わずかに時間をずらして行ってもらうようにお願いした。次は業者を入れたいところだ。
午後5時になり、とうとう閉会を宣言。私が口頭で「閉会となります!」と言うと、A室のみなさんが拍手をしてくれた。かなり感動したのだが、すぐに片付けの案内をしなくてはいけない。
要項などでさんざん強調してきた出店者の協力義務なのだが、実は去年の経験からいってそれほど時間のかかる作業でないことはわかっていた。事務局メンバーも10人以上いるので、昨年よりやることはないだろうとさえ感じていた。それでも協力義務を強調したのは、このイベントの性質をはっきりさせ出店者の意識やマナーに一定の緊張感を与える目的だったということは正直に記しておこう。
けっきょく机をたたんでイスを整理しゴミを拾う、という程度で終わってしまったので拍子抜けした人も多かったのではないだろうか。早く終わるぶんには不満は出ないはずだ、と思いたい。
最後にA室で「それではこれにて第二回文学フリマは終了です。ありがとうございました」と出店者に伝えた。また拍手が起こり、誰かが「おつかれさま!」と言った。また感動して、涙腺が緩んだ。帰り際にも多くの人がねぎらいの言葉をかけてくれた。
個々の反省点はともかく、イベントは無事終了した。事務局メンバーも皆満足そうな表情をしていた。第二回文学フリマは盛況の内に幕を閉じた。次につながる成功だった。
このレポートの最後の文章で匂わせているように、私には開催直後から「これなら第三回も開催できる」と確信していました。その点については、事務局メンバーも誰一人として疑問を唱える人はいなかったと思います。むしろ、「これでノウハウも身に付いてきたし、第三回はもっと楽にできるな」と考えていたほどなのです。それは今から振り返れば、少々皮肉な思い出になってしまったのですが。