文学フリマの軌跡2004-2005

本ページでは「文学フリマ五周年記念文集」に収録された「文学フリマの軌跡2004-2005」(望月倫彦) を公開します。

注: この文章は「文学フリマの軌跡2003-2004」の続きです。

そして第三回へ

さて、ここからの三章分は、私が2004年の夏のコミックマーケット向けに緊急に書き下ろして作成したコピー誌「さらば青山ブックセンター 〜第三回文学フリマ、会場変更の軌跡〜」を改稿した文章です。会場変更騒動の熱が冷めやらぬ時期に書かれているので感情的な部分も多いのですが、あえてそのテイストを残して掲載します。

第二回を終えて

まずイベントを実現させることを目的とした第一回、継続的なイベントとするための地盤固めを目標とした第二回を経て、事務局は第三回文学フリマ開催へ向けて動き出しました。事務局メンバーは第二回から継続参加の人と新規の人を合わせて、また10人程度となりました。

第三回開催に向けてまず考えるべきことは、日程と会場についてです。日程については、まだ事務局は半年おきに定期開催できるほどの能力を持っていないので、やはりこれまでと同じ文化の日前後にしようと決まりました。ただし2004年の11月3日は水曜日で、週の真ん中にあたる平日に挟まれた祭日でした。これでは遠方から参加しようとする人や社会人にとってはつらい日程となってしまいます。文化の日に文学のイベントを開催するというイメージの良さはあるものの、参加者本位に考えれば望ましい日程でないことは明らかです。そこで今回はその前後の日曜日に開催した方が良いという結論に達しました。また、学園祭など多くのイベントが集中する文化の日を外すことで、参加者層のバッティングを避けることになり、むしろ参加者の増加が見込めるという目算もありました。そんなわけで、開催日の第一候補は11月7日(日)と定まったのです。

会場についても、いくつかの悩みどころがありました。最大の焦点は、第三回でどれだけの数の出店応募があるかという点でした。会場が決まれば、おのずとブース数のキャパシティも決まります。すでに参加ブースが100を越えた段階で、青山ブックセンター・カルチャーサロン青山はかなり手狭な会場となってきていました。もし出店応募が150や200きてしまったら、相当数の落選を出さなければいけないことになります。その可能性を考えれば、もっと大きな会場で開催することが即売会としてのステップアップというものでしょう。

しかし、事はそう単純ではありません。まず、手頃な会場を確保すること自体が想像以上に困難な作業です。もともと同人誌即売会は「商業行為の一種」として公民館のような公的な会場からは使用許可が下りない場合が多く、それ以外にも会場側の基準をはるかに越える人波が押し寄せるイベントとして危険視されたり、あるいはもっと身も蓋もない場合は不健全で異常なイベントとして会場側から拒否されているという話も聞きます。つまり、同人誌即売会を受け入れてくれる会場というだけでかなり間口はせばまってしまうのです。そのため数多くの即売会が、少ないパイを奪いあうように会場の予約争いをしています。大きい会場ほど「予約受付は使用日の一年前」などかなり早い段階での予約を定めており、遅れてきて良い日程を押さえられるものではないのです。また、当然のことながら、会場の規模が大きいほど、使用料金も高額になります。下手に大会場を予約して、出店応募数が見込みよりも大幅に少ないという事態になった場合には大赤字をだすことになり、今後の継続的開催が危うくなることも考えられます。

そういう観点からすれば、「ハコを変えるのは破綻してからで良い」というのもひとつの考え方です。つまり、もし本当に150や200も応募が来てしまったら、次回から大きな会場に変えれば良いのであって、その時点で落選を出すのもやむをえない。下手な皮算用をするより、一度破綻してから大きい会場に移る方がよほど安全であるという論理です。では、はたして第二回文学フリマは破綻していただろうかと考えた時に、ひとつの課題が浮かび上がってきました。

結論として、第二回文学フリマ当日の実状は、破綻には至っていませんでした。その大きな理由は出店キャンセルの多さです。実は第二回文学フリマの出店応募のキャンセル率は、事前に連絡のあったサークル、当日来なかったサークル合わせて約15%にも及びました。寄せられたキャンセルの理由から、その原因は文学フリマの参加者に社会人が多いためであると考えられました。社会人の多さは文学フリマのひとつの特徴であり、それはおそらく今後も変化することはありません。つまり事務局がどんな努力をしようと、構造的な問題としてキャンセル率は減少しないのではないかと考えられるのです。

その事実は、大会場への移行を躊躇させるものでした。また逆に、手狭と考えていたカルチャーサロン青山に新たな可能性を見出すものでもあったのです。仮に応募数が多くなり落選を出す事態になったとしても、キャンセル待ちや委託販売などのシステムをうまく考えることでキャンセル率の高さを利用し、落選者へ充分な救済措置を用意できるのではないだろうか。それは事務局として運営を洗練させていくことでもあるし、チャレンジする価値があるように思えました。

また第一回、第二回と開催してきた青山ブックセンター・カルチャーサロン青山は、これまでの経験で利点も難点もほぼ把握できており、事務局にとっては使いやすい会場です。当日の混雑など現実的な問題についても、スタッフが慣れてきている分スムーズに対応できる考えられました。

もともとカルチャーサロン青山はその名の通りカルチャーセンターの教室として使われているところで、同人誌即売会の会場として使われたのは文学フリマが初めてでした。それも第一回の主催者であった市川さんが、当時の青山ブックセンターの担当者と個人的に親しかったという事情があってこそ実現したことでした。第二回の時にはその担当者が変わったりしたのですが、それでも第一回がそれなりに成功したイベントであるということで、先方との交渉にそれほど苦労することはありませんでした。「文学フリマは特別なコネクションがあったからカルチャーサロンを使わせてもらえたんだ」と言われれば、その通りです。かなり融通を聞いていただいたし、第二回終了後には向こうの信頼もさらに高まったような感触がありました。カルチャーサロンより広い会場に移れば混雑の問題は相応に解消されますが、それでも今まで使ったことのない新しい場所に移るということが冒険であることに変わりはありません。少なくとも下調べなどかなりの労力を使う必要があるでしょう。青山ブックセンターとの良好な関係を捨ててまで、冒険をするメリットがあるのかどうか、迷いどころでした。

加えて、青山という立地の良さ、ブックセンターそのものの集客力が捨てがたかったというのも正直なところです。通常、即売会に使える会場はあまり繁華街にはありません。ですから、何かのついでに会場に足を伸ばすというような来場者はそれほどいないのが普通です。どうしてもそのイベントの為だけに来てくれるという来場者しか訪れないということになります。しかし青山ブックセンター本店なら、休日のお出かけの一環としてたまたま文学フリマに立ち寄ってくれるような来場者層を期待できるわけです。文学フリマの「既成の文壇の枠にとらわれない開かれたマーケット」という理念からすれば、このような集客はとてもありがたいことでした。

それからこれはやや本題から逸れますが、文学フリマが他の会場に移りにくい理由として、他の同人誌即売会との交流がほとんどないということも挙げられるでしょう。そして交流の有無以前に、内容があまりにも違いすぎます。東京文具共和会館とか東京都産業貿易センターのように、同じ日に階毎でいくつものオンリーイベントが開催されるような場所に、突如として文学フリマが入り込んだらどういう雰囲気になるでしょうか。きっと、みんな困ります。

以上のように様々な議論、考察を経て、第三回はまた青山ブックセンターでやろうという結論に達しました。ただし、規模的にはかなり飽和状態になるはずなので、キャンセル待ちや委託販売を行ってできる限り受け入れる方法を考える。そして、来るべき第四回文学フリマに向けて、もう今から新しい会場探しに情報収集を始めることに決めたのです。

この方針は2004年1月26日に行われた会合において決定されました。今から思えば、これが運命の分かれ道でした。この会合に直後に私は青山ブックセンターとの交渉を開始し、ほどなく第三回文学フリマは11月7日(日)、青山ブックセンター本店・カルチャーサロン青山にて開催ということで、先方の内定を得ることになるのです。

幻のトークショー企画

青山ブックセンターで三回目の文学フリマを行うことになった段階で、トークショーのようなも企画も前向きに考えてはどうかという話は出ていました。第一回文学フリマでは開催時間中に大塚英志さんと鎌田哲哉さんの討論会というのが行われたのですが、事前告知がほとんど無く集客にほとんど貢献しなかった上に、「その間まったく本が売れない」などかなり不評だったので、第二回は純粋に即売会だけでイベントの真価を問うことにしていたました。第三回目はノウハウも出来つつあり、運営にそれなりに余裕が生まれるはずなので、なんらかの企画を動かすことも可能ではないかと考えたのです。

実際に青山ブックセンターと交渉をはじめてみると、先方からもせっかくだからトークショーのような関連イベントをやってはどうかと言われました。文学フリマを11月7日に開催するとして、その前日の6日午後を準備日として押さえてもらったのですが、せっかくの土曜日の夜なのだから机とイスを並べるだけではもったいない。前夜祭的な企画をやってみてはどうかというお話でした。確かに前日に行うぶんには出店者から苦情が出ることもないだろうし、会場的に別料金を取られることもありません。これは何らかの企画にチャレンジするいい機会かもしれないと思いました。

そんなわけでこのトークショー企画について私はかなり前向きでした。文学フリマ事務局はあくまでも即売会の運営に専念すべきという考え方もあるでしょうが、イベントとして新しい企画を盛り込んでいくというのもひとつのやり方です。文学フリマが内容的に先細りしていかないようにするため、トークショーなどで話題作りを仕掛けていくのは有効だと考えたのです。

青山ブックセンター側としては、内容はそちらに任せるし、ぜひ協力したいとおっしゃていました。後に大塚さんなどは青山ブックセンターの強い要請で事務局がトークショーをやろうと動かされているという印象を持っていたフシがありますが、少なくとも私は自分から積極的に話を進めていました。実際、「今年はトークショーみたいな企画もやれたらいいね」というのは青山ブックセンターと直接交渉に入る前の1月の会合で話していたことなのです。

4月頃から具体的な内容について考え始めたのですが、これがなかなか簡単なものではありません。あくまで文学フリマ前日のイベントとなると、そのイベント単体でそれなりの集客ができないと成立しません。一方で、前夜祭イベントが文学フリマ当日より盛り上がってしまっても困るわけです。前日イベントに参加したからいいや、ということで当日の来場者が減るのでは本末転倒です。例えば知名度のある大塚英志さんを呼べば客席は埋まるでしょうが、それはむしろ文学フリマに来てくれそうな客層を分散させてしまう可能性があります。そういった問題を皆で話し合う中で、いわゆるプロや有名人よりも文芸雑誌の編集者など日頃あまり表には出てこない人を呼ぶのがちょうど良いのではないかという話がでました。そこで私はある編集者を三人集めて鼎談してもらうという企画を提案しました。さすがに名前は明かせませんが、ひとつのテーマでジャンルの異なる雑誌の三人の編集長を集めるという内容でした。自分で言うのもなんですが、実現すればそれなりに話題になりそうなアイデアではありました。

ところがここで意外な展開になりました。この企画について大塚英志さんが疑問を投げかけてきたのです。誤解の無いように言っておきますが、大塚さんが第二回以降の事務局に直接自分の意見を述べるようなことは、これまでもほとんどありませんでした。ですから私たちはかなり異例のことと受けとめました。大塚さんの意見とは、要するにこのトークショーの企画は文学フリマの理念にそぐわない点がいくつかある、例えば高齢者や古いサヨクの人もいる多様性が文学フリマの面白さなのに、この企画は若者に寄りすぎている、といったことです。私もこの指摘は認めざるを得ませんでした。また、大塚さんの意見が呼び水になった形で、事務局メンバーからも様々な意見が飛び交いました。

そこで私はもう一つのアイデアを出しました。それは同人活動出身のある老作家を呼ぶというものです。幸い私が学校でお世話になっている先生が、本当に呼ぶなら交渉の仲介をしてくれるというお話もいただいたので、これなら実現できるという感触を持った上で提案しました。

そもそも日本の文壇は現在の文芸誌の体制ができあがり石原慎太郎が登場した頃から新人賞で作家を作り出すシステムが組み上がり、開高健と大江健三郎が芥川賞を争って話題となった頃には、作家は文芸誌と新人賞がつくりだすものになっています。そうなると2004年現在、同人誌活動を経て作家になった人というのはかなり希有な存在です。そのような状況で文学フリマがその数少ない生き証人とも言える作家の方をお呼びしてお話を聞くというのは、とても意義のあることと思えました。またこの企画についてはあまりに意外だったためか、大塚さんからも事務局内からも反対意見がでることはありませんでした。七十歳を過ぎたような方をお呼びするのはやや不安だという声はありましたが。

こうして、この文学フリマの前夜祭トークショー企画についても方向性が定まりました。この件については仲介を引き受けていただいた方が乗り気になって動いてくれたおかげで、出演についてはすぐ了承を得ることができました。夏中には私がその老作家の方に直接会いに行くという話まで進んでいたのですが……。

ところで、このトークショーの紆余曲折については後日談があります。事務局内での議論も収束した6月頃、私は大学の掲示板である講演会の告知を見ました。それは『新人作家の作られ方』と題して文芸誌の編集長が集う企画で、私が最初に考えていたものとかなり傾向が似ていたので驚きました。これは大学の公式の講演会でしたから4月の段階で内容はおおむね決定していたはずです。市川真人さんや大塚さんが事前に知っていた可能性は十分にあります。大塚さんはなにも言いませんでしたが、実はこの講演会と内容がかぶっていることに配慮して、あえて私たちに反対意見を提示してくれたのかも知れません。

青山ブックセンターの閉鎖と新会場探し

第三回文学フリマの開催日時・会場決定の情報は4月下旬から公知されました。それからプレスリリースを送り、「文學界」「読売新聞」「ファウスト」といった媒体にその情報を掲載していただきました。6月上旬には出店応募の受け付けも開始され、開催に向けて着実に歩みを進めている日々でした。 去年同様、このまま当日まで準備を進めていけばいいと信じて疑いませんでした。あの日が来るまでは。

2003年7月14日、私は青山ブックセンターの担当者Sさんに電話をかけました。会場のブース配置を見直すために、一度カルチャーサロンの空いている時間を使って仮配置をさせて欲しい、そう頼む私にSさんはこう応えました。「今週はちょっとたて込んでまして、来週あたりにもう一度ご連絡いただけませんか。そうですね、検分はだいたい7月の下旬くらいになってしまうかもしれませんけど、よろしいでしょうか」。私は、了解しました、またご連絡します、と答えて電話を切りました。

そして7月16日。午後9時頃。文学フリマ事務局の活動を手伝ってくださっているササキバラ・ゴウさんから電話がかかってきました。

ササキバラ「望月さん、今メーリングリストにも出しておいたんですけど、青山ブックセンターが閉鎖したらしいんですよ」

望月「え!?」

ササキバラ「望月さんには電話で早急に知らせておこうと思って。新文化のホームページに第一報が載ってるんですが、ちょっと緊急事態になっちゃいましたね」

望月「今パソコンで見てます。ああ〜、そうですね。これはマズイですね、会場が使えるかどうか」

ササキバラ「不意打ちでしたね、完全に。ちょっとこういう事態なんで、ホームページとかで会場と日時が流動的な状況になったってことを告知しておいた方がいいですね」

望月「出店の受付はじめちゃってますからね。応募した人も不安になるでしょうから、とりあえず文学フリマが潰れたわけじゃないよ、と」

ササキバラ「そうですね。第三回文学フリマは会場変わったり延期するかもしれないけど、ちゃんと開催するよという感じで」

望月「ええ。すぐNさん(ホームページの担当者)に連絡してみます。あと、明日にでもいちおう青山ブックセンターの方に問い合わせてみますけど、こういうのきっと今は社員も事態を把握してるかどうか……」

ササキバラ「きっとそうでしょうね。とりあえずこれから連休に入っちゃうんで、正確な事態が判明してくるのは連休が明けてからになると思います。とりあえず今は会場と日程が流動的になったと、それだけ告知して。それから実際カルチャーサロンがダメなら、代替会場探しに動かないと」

望月「そうですね。今まで調べてた会場の資料とか、もういちど当たっておきます」

ササキバラさんからの電話を切った後、私はすぐにHP担当者のN女史に電話をかけたのですが、繋がりませんでした。私はとりあえず自分で直接更新できる事務局通信のコーナーで告知しておくことにしました。

2004/7/16 重要なお知らせ

「第三回文学フリマ」ですが、現在告知している開催日・会場について変更があるかもしれません。申し込みをされる方、あるいは既に申し込みをされている方は、開催日・会場について流動的な状況であることをどうか御了承下さい。

詳しい状況がわかり次第、おって告知・ご連絡いたします。

そうこうしているうちにN女史から携帯にメールが届きました。

07/16 21:34 sb:こんばんは
今ちょっと電話に出られないのですが、どうしましたか?」

以下が私の返信です。

07/16 21:44 sb:Re:こんばんは

青山ブックセンターが倒産したらしいです。会場と開催日時が流動的になると思うので、その旨を告知する必要があります。

いちおう第三回が消滅したわけではなく、予定が流動的になっているという感じで、申込受付は続ける形にします。申し込むならその点ご了承ください、と。

詳しくは電話とMLで相談しましょう。」

こうしてメールの文章にするとやけに冷静な感じですが、もちろん私もあわてていました。さらにそれに対するN女史の返信が以下。

07/16 21:46 sb:Re:こんばんは

え!ええ!?帰宅したら折り返しかけます。23時頃大丈夫ですか?」

メールでもN女史の驚きが伝わってくるようです。その後、N女史から電話があり、一通りの事情を説明してHPの告知をお願いし、その晩のうちに“お知らせ”が更新されました。

それから私は例のトークショー企画の仲介に動いていただいた方にメールを出しました。とにかくトークショーの企画自体どうなるかわからない、申し訳ないが、今後思わぬご迷惑をおかけすることになるかもしれない、そんな内容でした。

青山ブックセンターが閉鎖したその日に、こうしてある程度の対応ができたのは良かったと思っています。

しかしここまでやってしまうと、緊急事態なのにもう打つ手がないという、非常にじれったい気分になってしまいました。そういえば今日はKOWA君(第二回文学フリマ告知のパンダフラッシュを作ってくれた人。望月の古くからの友人)がオフの日で呑みたいとか言っていたっけ。電話をかけてみると「今、渋谷で呑んでる」とのことで、「すごいニュースがあるんだよ、実は。今から行く」と思わせぶりな予告をして、合流することにしました。渋谷のいきつけの居酒屋に入ると彼はどんなニュースか期待して待っていました。私に彼女でもできたか、あるいは失恋でもしたのかと冗談交じりに聞いてきましたが、「青山ブックセンターがツブれた」と言うと「うわー、マジで? どーすんだよ」と驚いていました。その後はもうヤケ酒です。そのうち「このまま青山まで行って店がどうなってるか見てこよう!」という話になり、深夜0時を過ぎた青山通りを連れ立って歩いて、ブックセンター本店まで行きました。当然ビルの入り口は閉まっていましたが、ショーウィンドウ越しに店舗内の様子を見ることができました。もうすでに本棚はカラッポの状態で、一冊の本も残っていませんでした。あまりにも手際が良すぎて、私にはそれがとても皮肉なものに感じられました。

明くる7月17日、私はまず青山ブックセンターの担当者Sさんがいる商品部に電話をかけました。思った通りと言いましょうか、むなしくコール音が聞こえるだけで人が応答する気配は一向にありません。無駄だとわかっていても、きっちり20コールまで待ちました。それからインターネットで「新宿店はまだ営業しているらしい」との情報を得たので、今度は新宿店に電話をかけました。すると繋がったではありませんか。

受付の女性「はい、青山ブックセンターです」

望月「あの、新宿店は今日も営業してるのでしょうか?」

女性「大変申し訳ありませんが、予定が変わりまして営業はしておりません」

望月「そうですか。……あの、私は本店のカルチャーサロン青山でイベントのために会場の予約をしていたの者なのですが、それについてはどちらに問い合わせればよいのでしょうか?」

女性「それですと商品部の管轄ですので、今からお教えする電話番号の方へお掛け下さい」

そうして教えられた電話番号は、コール音が響くだけのあの番号と同じものでした。ここで「そこにはさっき電話したけど繋がらなかったぞ!」と詰め寄ることもできたのですが、それはこんな状況で電話番をやらされているこの女性に対してあまりに酷な仕打ちのように思えてできませんでした。ため息をついて電話を切りました。

7月18日。事務局のメーリングリストでは代替会場についての情報整理が行われていました。先にも述べたように、事務局ではかなり前からカルチャーサロン青山以外の会場についても模索し続けていました。結果としてそのことが青山ブックセンター閉鎖後の対応を迅速にしました。この会場調査を続けていたことが、思わぬ形で役立ったのです。

事前の情報から、候補はすぐに三つ程度まで絞ることができました。最大の問題は11月7日の前後の日曜日を予約できるかどうかでした。秋口といえば何かとイベントの多い時期でもあり、7月の中旬も過ぎた段階ではかなり厳しい状況であることは明らかでした。

またこの日、私は両国にある江戸東京博物館の会議室で開催された「TOKYOポエケット」に足を運んでいました。ここは代替会場の候補のひとつであり、実地検分が目的でした。江戸東京博物館は公共施設のため使用料金が非常に安く、机やイスも付帯什器として使うことができます。ただし、会議室だけでは60サークル程度の広さなので、隣接する実習室1・2も同時使用するのが文学フリマの規模としてはベストでしょう。もちろんそれはフロアが分断されるというデメリットになりますが。

7月19日、海の日で祭日の月曜日。午前11時過ぎ、とうとう青山ブックセンターの担当者Sさんから電話がかかってきました。

S「すいません、望月さん。なんかそちらにミソつけちゃって……」

望月「いや、状況が状況ですので。なんか大変なことになっちゃって」

S「本当に申し訳ないです。厳しい状況でもなんとか継続していくっていう話だったんですけど、金曜日の段階で急遽ああいうコトになってしまって」

望月「そうですか。それで今回はカルチャーサロンは使えないということで?」

S「ええ、すいません、本当に」

望月「まあ仕方ないです。こういう状況ですからね」

S「本当にとんだご迷惑をおかけすることになってしまって。すいません。あの、またご連絡します」

覚悟はしていましたが、やはりカルチャーサロンが使えなくなったという連絡の電話でした。残念でしたが、この連絡のおかげでホッとした部分もありました。それなりに事態が判明した訳で、会場を使えるのかどうかわからないという宙ぶらりんの状態ではなくなりました。担当者のSさんもちゃんとこちらに連絡をくれたわけで、こちらの信頼に答えてくれたと感じました。最悪、連絡が付かないまま、なし崩しで会場が使えなくなるという事態も考えていたので、まだ連休も明けない月曜日に連絡をくれたのはSさんにできる精一杯の対応だったのではないでしょうか。

7月20日、連休が明けたこの日、大塚さんから連絡がありました。大塚さんの事務所は日曜祭日に休んでいることがほとんどなので、連休中は連絡が取れませんでした。本当は先に大塚さんの方から電話をいただいたのですが、私が留守にしていたため受けることができず、その後でこちらから折り返し電話をかけました。ちなみに大塚さんの事務所に電話をかけた時、スタッフの方が出た場合は「はい、物語環境開発です」と応対してくれるのですが、大塚さん本人が出た際にはいきなり「はい、オオツカです」と言われます。初めての時はかなり面食らいました。この日は後者のケースでした。

大塚「はい、大塚です」

望月「あ、あの……文学フリマの望月です。先程お電話いただいたようで」

大塚「ああ、望月君。大丈夫? あのさあ……」

以下、20分ほど会話が続いたので採録は割愛します。要約すれば、①青山ブックセンターがダメでも直接カルチャーサロン青山の方へ電話して事情を聞いてみたらどうか。いちおう書店とは別組織ということになっているようだし、もともとはカルチャーセンターなのだから三ヶ月とか半年という契約でお金を取っている講座もあるはずで、書店と違っていきなり閉鎖というわけにはいかないはず。直接交渉してみれば可能性はあるかもしれない。②あくまでも第三回文学フリマを開催するという方針なら、使える会場で妥協することも必要。例えば日本近代文学館にはホールがあってブース数は50くらいしか入らないと思うが、ぼくは講座などでおつきあいがあるから交渉は可能。状況が状況だから、開催のためには規模を縮小する勇気も必要。③プレスリリースを送ったメディアや出店応募をしてくれた人に早急に第一報を送ること。日程・会場が未定になっているが、開催する方向で動いているということだけでいいから早めに手を打つべき。送り先リストや文面をくれればうちの事務所で作業を請け負ってもいい。

もちろんその他に細かい話は色々ありましたが、主な用件はこの三点でした。最後の「事務所で作業を請け負ってもいい」というのは、これまでの事務局に対する大塚さんの線引き、直接的な手助けはあえてしないというスタンスを考えれば、異例中の異例とも言える申し出でした。大塚さんから見ても「文学フリマ最大の危機」という認識があったのでしょう。この電話で「とにかく文学フリマは“やる”というつもりなんだよね?」と念を押すように聞かれたことも思い出されます。

しかし考えてみれば、事務局のメンバーで「もうダメなんじゃないか」「文学フリマの継続は無理なのでは」という不安を口にした人は誰もいませんでした。もちろんそんなセリフは心で思っていてもなかなか表には出せないものではあります。しかし私の印象としては、むしろ「青山がダメなら、よその会場使えば済む話でしょ」という楽観的なムードさえ感じられました。「これまでの会合でも第四回以降の会場をどうするかという話は出ていましたし、避けては通れなかった会場決定の問題が前倒しになったということ」とはN女史の発言ですが、別会場について事前調査を続けていたということがメンバーの精神的な余裕にも繋がったのだと思います。

先の第一報の発送作業についても私がMLでこのまま大塚さんの事務所にお願いしていいのか問うたところ、メンバーのY氏が「誰でもできることに関して事務所頼みというのは避けた方がよいと思いますので、ハガキ作成・送付の担当に立候補します」と言ってくれました。正直なところ、私も安心しました。

それから大塚さんのアドバイスを受け、その日の内にカルチャーサロン青山へ直接問い合わせをしました。

受付の女性「はい、カルチャーサロンですが」

望月「11月にイベントでそちらの会場を予約しているものなのですが、そちらの会場を使うことはできるのでしょうか?」

女性「え? あの、お電話先をお間違いなのでは? こちらはカルチャーサロン青山ですが」

望月「ですから、そちらの会場を予約しているのですが」

女性「あのー、それは青山ブックセンターの方にお問い合せいただきたいのですが」

望月「会場は使えなくなったのでしょうか?」

女性「ブックセンターの方ではどのように言われましたか? そちらで聞いていただきたいのですが」

望月「えーと、ブックセンターとの関係で、そちらの会場は今後どうなるんでしょうか?」

女性「申し訳ありません。それは青山ブックセンターの方に……」

このようにまったく埒があきませんでした。それほど期待していたわけではないので構わないのですが、それにしても「お電話先をお間違いなのでは?」には頭にきました。少なくとも、これでカルチャーサロン青山での開催は不可能であることがはっきりしたと感じました。

また、この20日にはササキバラ・ゴウさんが仕事の合間に秋葉原の東京都中小企業振興公社に寄って、予約状況を確認してきてくれました。もともとこの東京都中小企業振興公社については第二回文学フリマ開催の以前から、規模的にはちょうどいい会場ではないかということでササキバラさんがパンフレットを持ってきてくれたところであり、青山ブックセンターが閉鎖した直後から代替会場の有力な候補として名前が挙がっていました。実際に聞いてきたところでは秋口の日曜日では11月14日が空いているということで、私の中ではひとつの光明が差したように思えました。

前にも述べたように、7月中旬の段階で秋口の会場を押さえるというのは、ほとんど猶予のない状況です。そこで現状では江戸東京博物館の会議室・実習室、日本近代文学館、東京都中小企業振興公社の三つを最有力として考えていくことになりました。ササキバラさんの助言もあり、その週の内に私がすべての会場を実際に見て回り、予約状況を確認して、場合によっては独断で予約してしまうということになりました。江戸東京博物館はすでに現地に足を運んでいるので、あとは予約状況です。東京都中小企業振興公社は21日に、日本近代文学館は23日に見に行くことにしました。

7月21日の午前、まず私は江戸東京博物館の舞台事務室へ電話をかけました。実は前日にも電話をしたのですが、江戸東京博物館は通常月曜が休館日で、その週の月曜日は海の日で祭日開館となり火曜が振り替え休館となっていてつながりませんでした。ともかくこの日は無事に係の人が電話に出たので、私は会議室と実習室の予約状況について問い合わせました。結果はあまり喜ばしいものではありませんでした。11月はまったく空いておらず、それ以降もせいぜい年末年始に空きがある程度とのことだったのです。三つの候補の内のひとつが絶望的になったのですから、少々がっかりしました。

その日の午後、私は気を取り直して秋葉原にいました。せっかくなので友人を誘い、連れだって会場を見に行ったのです。東京都中小企業振興公社はササキバラさんから聞いていたようにとてもきれいな会場であるというのが第一印象を持ちました。一階と二階が吹き抜けでつながり、奥の壁はガラス張りで神田川を臨めるようになっており、かなりの開放感があります。一通り会場内を見せてもらった私は、ここでなら文学フリマが開催される様子をイメージできるような気がしました。スペースが一階と二階に分断されてしまうことや、使用料金だけでなく机イスを業者に頼まなくてはいけないことによる予算の高騰、秋葉原という街の持つ文学とはそぐわないイメージなど、問題はいくつか思い付きましたが、それでもこの会場でなら、単なる代替や緊急措置ではなく、ちゃんとした体裁のイベントが開催できると感じたのです。予約するとしても日程を11月14日に変更せざるを得ませんが、むしろ一週分のずれぐらいなら御の字だとも思いました。午前中に江戸東京博物館の使用が困難な状況であるとわかったことが、私を焦らせていたという側面も否定しません。それでも私は受付で会場使用料金の支払時期などを詳しく確認し(つまりいつまでならキャンセル可能なのかを確認し、まだ他の会場を選択できる余地を残したのです)、11月14日の使用申込書にサインを入れたのでした。

7月22日。前日の事情を私のMLで知った市川さんから「江戸東京博物館には知り合いがいるので詳しいことを聞いてみます」と連絡がありました。結論としては、11月は主に江戸東京博物館が特別企画展示の準備場所として会議室などを自己予約しているそうで、見通しが立てば二、三ヶ月前に一般に開放されることがあるらしいとのことでした。今後のためにも有益な情報でしたが、さすがに見通しのわからないものを期待するわけにはいかないので、江戸東京博物館の可能性はほとんどないということになりました。

7月23日。予定通り自転車で日本近代文学館へ行きました。一度も行ったことはなかったのですが、たどり着くまでに少し迷いました。駅からも道を回り込むような感じになり、一度駒場公園の敷地に入ってその中に建物があるというプロセスがちょっとわかりづらいと感じました。

そして肝心のホールなのですが、実は受付で話したところ「明日の会場準備で使ってるから」とのことで中を見せてもらえませんでした。ホールのレンタルをメインでやっているところではないので、事前に電話でアポを取っておくべきでした。しかし正直なところ、今何かに使用している最中だというならともかく、準備をしているだけなら見学くらいさせてくれてもいいのにと思いました。ただ、事前に50ブース程度しか入らないと聞かされていたので、そこはやはりネックでした。

その他にいろいろ聞いてみたところ、まず施設に机は無いとのことで、もしここで開催するなら業者に頼まなくてはいけないということになります。そして通常は、日曜が休館日であり、その日はホールなど施設の貸し出しも行っていないとのことでした。このあたりは大塚さんから「交渉のしようはある」と言われていましたが、やはり不安を感じました。

また個人的には、日本近代文学館は“展示”と“保存”という相反する博物館の二大機能の内、どちらかと言えば後者に重きを置いているという印象を持ちました(ちなみに私は大学で学芸員課程を修めています)。自前の特別展が盛況になるならならともかく、貸しホールで行われるイベントによって人が押し寄せることを、“保存”重視の博物館は好まないのではないかと感じたのです。日本近代文学館で文学フリマを開催しようとして、本当に交渉がうまくいくのかどうか不安が大きくなりました。時間の猶予がない中で、今から交渉を始めても間に合うとは思えなかったのです。

この段階で私の心の内はほとんど決まりました。というより、現実的な選択肢として、もう東京都中小企業振興公社で11月14日という線しか残らなかったと言っていいでしょう。事務局のメンバーたちもそのあたりの事情は理解していたので、特に反対意見が出ることもありませんでした。

そういう意味では、まさに綱渡りの会場変更であったと思います。もしもこの東京都中小企業振興公社の予約に空きがなかったならば、第三回文学フリマは大幅な規模縮小をせまられたか、大幅な日程延期をせまられていたでしょう。青山ブックセンター閉鎖から新会場・日程のお知らせが公知されるまでの間に、「文学フリマはブックセンターと共に瓦解した」とか「年内開催は到底ムリだろう」などと言われたようですが、現実にその可能性は大いにあったのです。

これ以降、机やイスの業者の情報収集、変更告知の送り先リストの整理など行い、8月1日に開かれた文学フリマ事務局で正式に会場・日程の変更を確認し、HPなどで即日公知を行いました。変更があったことで様々な問題が山積していますが、最大の危機を乗り切ったという実感があります。

大型書店・青山ブックセンターの閉鎖という事態に見舞われながらも、なんとか新しい会場を見つけられたのは、文学フリマ事務局メンバーの情熱と努力、大塚英志、市川真人、ササキバラ・ゴウ各氏が陰に日向に差しのべてくれたご協力、そして「是非やめないでほしい」と応援の声を寄せてくれた文学フリマを愛するみなさまのおかげに他なりません。それらの方々には今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

第三回文学フリマ

さて、なんだか締めの文章のようになってしまいましたが、イベント開催への作業はまだまだありました。この騒動が痛手だったのは、既に会場と日時を発表した後で、なおかつ参加者の募集まではじめていたということです。新しい開催日時と会場が決定した後、すでに申込をしてくれていた方にはその情報と共に参加キャンセル用のハガキを同封しました。日程まで変更してしまったので、都合で参加できないという人がいるだろうと考えたからです。また、7月下旬に変更を発表したので、情報の告知の点で前回よりも厳しい状況にありました。会場は前よりも広いところになりキャパが増えたものの、正直なところ申込数が伸びないのではないかという不安はありました。しかし結果として変更によるキャンセルは1件しかなく、最終的な申込数は134にものぼりました。もちろんこれは今までで最高の数字であり、もし青山ブックセンターでやっていれば抽選を行って30以上の落選を出さなくてはいけなかったことになります。私はこの数字にホッとしました。それは第三回が無事に成立しそうだということだけでなく、文学フリマというイベントが青山ブックセンターのブランドに頼らずともやっていけるということでもあるからです。

また、東京都中小企業振興公社に移って、あらたに必要となったのが、机やイスといった什器のレンタル業者との交渉です。青山ブックセンターの時は会場付帯の設備として長机やイスがあったので、別途レンタルする必要はなかったのですが、いわゆる展示場である振興公社ではそれらも持ち込まなくてはならないのです。

また、会場が広くなったことで追加イスの希望も受け付けることにし、さらに宅配便での搬入、搬出も業者に連絡してイベント用の特別な手順で行うことにしました。青山ブックセンター・カルチャーサロン青山という特殊な場所から一般の展示場に移ったことで、自然と標準的な同人誌即売会の仕組みに近づいていったのです。参加者本意で考えていくうちにおのずとそうなっていったのでした。

もうひとつ会場が広くなったことで可能となったのが、立ち読みコーナーです。これは出店者から見本誌を集めて一カ所に置き、来場者がじっくり読めるようにするものです。活字系の同人誌はマンガと違ってぱっと見の印象で購入してもらえることが少ないのですが、逆に来場者からすれば作者本人の目の前でじっくりと立ち読みをするのはなかなか出来ないことです。その問題を、サークルのブースとは別に立ち読みコーナーを設けることで、緩和することができるのです。

また、これは会場変更前から進めていたのですが、この第三回にしてようやくきちんと製本されたカタログを作成しました。これは参加者の要望も高かったもので、事務局としても念願でした。これに関しては当初から無料配布にするという方針が固まっていました。これは出店者が多くの来場者に知ってもらいたいという意図で作成するものなのだから、印刷費は出店者の参加費でまかなうことにして無料で配布しようということです。一般的に、同人誌即売会のカタログはチケットと同様の扱いで購入必須としていたり、そうでなくとも有料にしていることが多いので、これはやや珍しい発想と言えるかも知れません。このカタログ印刷費のために第三回の募集では、まだ青山ブックセンターでの開催予定だった段階から参加費を3000円に値上げしていたのです。ここで値上げしていたことによって、会場変更の際にも3000円のまま募集を続行することができたのは幸いでした。しかし、会場変更によって予想以上に予算が増大した場合は、カタログも100円や200円の有料に切り替えて対応しようという計画も頭にありました。それは現在でも変わりません。カタログ無料配布は文学フリマにとって、いざというときの保険のような役割を果たしていると言えるのかも知れません。

2004年11月14日、紆余曲折あった第三回文学フリマは無事に開催されました。私は会場のマイクを使って朝の挨拶をしたのですが、「まだイベントが始まる前ですが、今日この時を迎えられただけで私はもう勝利宣言でもしたいような気持ちです」と言ったことを覚えています。開場前に100人近い入場待ちの列もできたのですが、会場のロビーが広いために充分対応が可能でした。

表紙にマスコットのパンダを大きくあしらったカタログはおおむね好評でした。そのカタログは当日に約850部配布したので、この日の参加者はだいたい850〜900人程度と考えられます。つまり第二回よりも動員は下がったことになるのですが、これは青山ブックセンターから流れてくるお客さんがいないことを考えれば想定の範囲内でした。私としては会場全体が閑散としていたらやばいと思っていて、出店者以外の一般来場者だけで600以上は来てくれたことになるこの数字にむしろ安心したほどでした。付け加えるなら、次回はもっとパブリシティに時間を掛けられるので来場者を増加させる手段はまだまだあるぞ、という自信もありました。

什器の搬入や搬出でも大きなトラブルはなく、初めての作業が多かった第三回文学フリマは無事に終了しました。業者を使った搬入・搬出、カタログ、そしてなによりも会場変更。同人誌即売会の運営に必要な事柄は第三回にしてほぼ出揃いつつありました。事務局は早々に来年の同会場の日程を予約し、第四回へ向けて動きだすことになります。

秋葉原

会場が秋葉原の東京都中小企業振興公社に移ったことで、様々な意見がありました。「会場が広くなって良かった」「アクセスが良い」といった肯定的な意見がある一方で、「青山ブックセンターのほうが良かった」「秋葉原という土地柄がイヤだ」という声がかなり聞かれました。中でも私が個人的にショックだったのは、あるそれなりに有名なサイトに書かれた「代表者はオタクらしいから秋葉原に移ってイベントの傾向が変わってしまうことを危惧する」というもの。青山ブックセンターの倒産騒動に巻き込まれ、苦労して新しい会場を設定したのに、それはあんまりというものでしょう。

ともかく、2004年の時点で秋葉原に対する拒否反応は相応にありました。では第四回文学フリマの会場をどうするべきかということは、第三回開催前から事務局の議題となっていました。

しかし、キャパシティ的に非常に適した会場であること、あまりころころと会場を変更し続けるのはイベントとしてよくないということ、アクセスの良さが際だっていることなどから、秋葉原での継続開催を決定しました。また「よくわからない場所でやるよりは、ポジティブにしろネガティブにしろインパクトのある土地で開催するほうがいい」という意見もあり、そういう見方もあるのかと感心した記憶があります。

事務局としては単純にイベントの継続に適した場所を選択しただけだったのですが、2005年は思わぬ秋葉原ブームがおとずれた年でもありました。メイド喫茶や「電車男」などで一般に秋葉原という得意な街が紹介され、はとバスツアーまで登場するほどでした。なによりも驚いたのは、つくばエクスプレスが開業し、中央改札口ができたことで東京都中小企業振興公社がまさに駅の目の前、徒歩一分という立地条件になったことです。イベントとしてはとてもありがたい変化でした。

第四回文学フリマ

第四回文学フリマは2005年11月20日、秋葉原の東京都中小企業振興公社にて開催されました。

この時の申込数は前回から55件の増加となる190件。正直言って予想を大幅に超える数で、30近い落選を出さなくては行けない状況となりました。実は第二回でもごく少数の落選を出していたのですが、30という数は正直言って非常につらいものがありました。

また、先ほど同人誌即売会の運営に必要な事柄は第三回にしてほぼ出揃ったと書きましたが、第四回にして初めて行ったことがあります。それは開催直前の配置変更です。

これはいわゆるライトノベルの人気作家である桜坂洋さんと桜庭一樹さんのサークル「blackcherry bob」に対して行った混雑対応の処置でした。もちろん、最初にサークル配置を行った段階で、私もお二人のことは認識していたのですが、失礼ながら50人程度の列を予測していたのです。しかし、これはいいわけになってしまうかもしれませんが、文学フリマの申し込みを受け付けた6月から文学フリマ開催の11月までの間に、お二人の評判がぐんぐん上がっていったという印象を私は持っています。さらに、このお二人はご自分のHP、雑誌でのインタビュー、トークショーの席上などで「文学フリマで合作本を出す」と宣伝されていたので、ファンのあいだでは大きな話題となっていきました。

10月の段階で、私もこれは50人どころか100や200や300の列になるという認識を持つにいたり、配置変更を決断しました。これは二階の端にブースを配置して、会場の主導線ではない階段を利用して二階から一階のロビーまで列を形成するというプランで、あの会場でもっとも有効な方法と思われました。

そして当日、予想通り開場前には文学フリマ始まって以来の行列が出来ていました。200〜300人という規模の行列は当然、会場のロビーにはおさまらず三件隣の建物の前まで伸びてしまうほどでした。ちなみに、「blackcherry bob」さんのほうでも混雑対応のスタッフを出していただいたのですが、その人にしてから行列を見て「うわ!」と声を出して驚いていたので、本人たちの予想を超えるほどだったのかもしれません。

とはいえ、配置変更の混雑対応プランが功を奏し、開場時の行列を乗り切ることに成功しました。逆に、もしも配置変更を行っていなかったらと考えるとおそろしいかぎりです。ちなみに、桜坂さん、桜庭さんは「事務局にご迷惑をお掛けしました」と恐縮されていたのですが、私としては「いやいや、まったく問題ないです」という気持ちでした。この日の経験で、イベントというものは開催前のプランニングさえしっかりしていれば、300人くらいの行列は恐るるに足らない、という自信を持つことができたのです。

第四回文学フリマはこの「W桜効果」もあって、最高の入場者数を記録しました。1000部刷ったカタログは午後3時で配布を終了しました。最終的に出店者、一般来場者合わせて1200人が会場を訪れたと推定されています。

ちなみにこの時は「blackcherry bob」ばかりが注目されるのですが、他にもこの一日で数百部を売った同人誌があると聞きます。対外的にはプロの話題が注目されがちですが、文学フリマ全体が盛り上がっていたのだということを私はうれしく思います。

今後の展開

さて、文学フリマもいよいよ五周年となります。

今後の継続開催に関して焦点となっていくのが会場の問題でしょう。正直なところ毎回30という落選を出していくのはつらいし、東京都中小企業振興公社のキャパシティを考えると当日の混雑も厳しいものになっていく恐れがあります。一方で、今の文学フリマの規模は非常に中途半端でもあります。即売会を開催する会場で次のステップを探すとなると、500サークル規模の大きな会場になってしまったり、かなり都心から離れた場所になってしまったりと、難しい問題があります。参加者数が大幅な減少傾向に転ずるようなことがなければ、小さい会場に移ることはできませんし、進むも戻るも難しい微妙な規模のイベントとなっているのです。

継続開催を旨とし、スポンサーなど資金的なバックボーンを持たない文学フリマ事務局では、リスクを冒して大きい会場に移る冒険はできない部分があります。参加者のみなさまにもさまざまな不満はあるでしょうが、今後の運営も温かく見守って頂きたいとお願いすると同時に、あらたに事務局に参加してくれる方を広く募集していきたいと考える次第です。

また、2006年2月26日には地元の有志によって、初の地方開催「文学フリマinなごや」が開催されました。私は少しアドバイスをした程度で直接運営には関わっておらず、いち出店者として参加したので、詳しいことはまた別の機会にご紹介したいと思います。また名古屋でも、そしてまた別の地方でも有志の方が名乗り出て、文学フリマを広げてもらえることを願っています。

2006年以降は文学フリマ十周年記念文集に収録の「文学フリマ回顧録2006→2011」でまとめています。

ご興味のある方はぜひこちらを読んでみてください。